たずねた。そうして、むろん司令部からも手伝いの者が来るであろうが、出発前に何かの用事があれば遠慮なく言い付けてくれと言い置いて帰った。その翌日、支店長の命令で、佐山君とほかに一人の店員が大尉の家へ顔を出すと、家じゅうは殆んどもう綺麗に片付いていた。大尉は細君《さいくん》と女中との三人暮らしで、別に大した荷物もないらしかった。
「やあ、わざわざ御苦労。なに、こんな小さな家だから、なんにも片付けるほどの家財もない。」
 大尉は笑いながら二人を茶の間に通した。全体が五間《いつま》ばかりで、家じゅうが殆んど見通しという狭い家の座敷には、それでも菰《こも》包みの荷物や、大きいカバンや、軍用|行李《こうり》などがいっぱいに置き列《なら》べてあった。
「皆さんにも折角お馴染みになりましたのに、急にこんなことになりまして……。」と、細君は自分で茶や菓子などを運んで来た。
 細君の暗い顔が佐山君の注意をひいた。もう一つ、彼の眼についたのは、茶の間の仏壇に新しい白木の位牌の見えたことであった。仏壇の戸は開かれて線香の匂いが微かに流れていた。
 どこへ転任するのか、あるいは戦地へ出征するのか、それに就いては大尉も細君もいっさい語らなかった。佐山君たちも遠慮してなんにも訊かなかった。混雑の際に邪魔をするのも悪いと思って、二人は早々に暇乞いをした。
「そうしますと、別に御用はございませんかしら。」
「ない、ない。」と、大尉は笑いながら首をふった。「支店長にもどうぞよろしく。」
「はい。いずれお見送りに出ます。」
 二人は店へ帰ってその通りを報告すると、支店長は黙ってうなずいていた。しかし彼の顔色もなんだか陰《くも》っているように見えた。向田大尉がここを立去るのは余り好い意味でないらしいと、佐山君はひそかに想像していた。それから三日目の夜汽車《よぎしゃ》で向田大尉の一家族はいよいよここを出発することになった。大尉は出発の時刻を秘密にしていたのであるが、どこで聞き伝えたのか、見送り人はなかなか多かった。その汽車の出て行くのを見送って、支店長は思わず溜息をついた。
「いい人だっけがなあ。」
 それから半月ほど経って、向田大尉から支店長にあてた郵便が到着した。状袋には単に向田とばかりで、その住所番地は書いてなかったが、消印が東京であることだけは確かに判った。佐山君はその郵便物を支店長の部屋へ持って行
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