が光っていた事は、福島金吾確かに見とどけたと云う事。
 因みに記すも古めかしいが、右の溜池界隈には猶一種の怪談があって、これも聊《いささ》か前の内藤家に関係があるから、併《あわ》せてここにお噺し申そう、慶応三年の春も暮れて、山王山の桜も散尽くした頃の事で、彼《か》の溜池の畔に夜な夜な怪しい影がボンヤリと現われる。もっとも其頃《そのころ》の溜池は中々広いもので、維新後に埋められて狭くなり、更に埋められて当時の如く町家立ち続く繁華の地となったが、慶応頃の溜池は深く広く、其《その》末のドンドンには前記の如く河童小僧さえ住むと云う位、其の向う岸即ち内藤家の邸《やしき》の裏手に当って、影とも分かず煙とも分かぬ朦朧たる物が、薄墨の絵の如くに茫として立迷っているのを、通行人が認めて不思議不思議と云い囃す、其《そ》の評判を同邸の家中の者が聞伝えて、試みに赤坂の方へ廻って見渡すと、何さま人の噂に違わず、影か幻か朦朧たる物が水の上に立っていて、其《そ》の形さながら人の如くであるから、何《いず》れも唯だ不思議だ奇怪だと云うのみであったが、念の為に小舟を漕ぎ出して其《その》影の辺《あたり》に近づいて見ると影は消えて何にもない、扨《さて》又|旧《もと》の岸へ帰って見ると、彼の影は依然として水の上に迷っている、これは恐らく水中に何物か沈んでいるのではあるまいかと、一同協議の上で、その翌《あく》る朝更に小舟を漕ぎ出し、夜な夜な影の迷う辺《あたり》を其処《そこ》か此処《ここ》かと棹で探ると、緑伸びたる芦の根に何か触る物がある、扨《さて》はと一同立騒いで直ちに此《こ》れを引きあげると、思いきや此《こ》れは年頃二十三四とも見ゆる町人風の男で、荒縄を以て手足を犇《ひし》々と縛られたまま投込まれたものと覚しく、色は蒼ざめ髪は乱れ、二目と見られぬ無残の体で、入水後已に幾日を経たのであろう、全身腐乱して其《そ》の臭気|夥多《おびただ》しい、一同アッと顔見わせたが兎も角も其《その》死体を舁《か》き上げ、上に其《その》次第を届け出《い》でて、それぞれ詮議に手を尽《つく》したが、この男は何者とも分らず、随って其《そ》の死因も分らず、いわんや其《そ》の下手人も分らず、詮議も竟《つい》に其《それ》なりけりに済んで了ったとは、何《なん》ぼう哀れなる物語。で、彼《か》の怪しい人かげは、正しく此《こ》の水死者の幽魂が夜な夜な
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