黄八丈の小袖
岡本椅堂

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)白子《しろこ》屋

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(例)取|鎮《しづ》める

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(例)※[#「日+向」、第3水準1−85−25]
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     上

「あの、お菊。ちょいとここへ来ておくれ。」
 今年十八で、眉の可愛い、眼の細い下女のお菊は、白子《しろこ》屋の奥へ呼ばれた。主人《あるじ》の庄三郎は不在《るす》で、そこには女房のお常と下女のお久とが坐っていた。お久はお菊よりも七歳《ななつ》の年上で、この店に十年も長年《ちょうねん》している小賢《こざか》しげな女であった。
 どんな相談をかけられたか知らないが、半※[#「日+向」、第3水準1−85−25]《はんとき》ほどの後《のち》にここを出て来たお菊の顔色は水のようになっていた。お菊は武州越ヶ谷の在から去年の春ここへ奉公に来て、今年の二月の出代りにも長年して、女房のお常にも娘のお熊にも可愛がられていた。時々に芝居やお開帳のお供にも連れて行かれていた。
 お菊は一旦自分の部屋へ退ったが、何だか落付いていられないので、又うろうろ[#「うろうろ」に傍点]と起《た》ち上って台所の方へ出た。白子屋は日本橋新材木町の河岸に向った角店で、材木置場には男達の笑い声が高く聞えた。お菊はそれを聞くとも無しに、水口にある下駄を突っかけて、台所から更に材木置場の方へぬけ出して行った。そこには五六人の男が粗削りの材木に腰をかけて何か面白そうに饒舌《しゃべ》っていた。その傍《そば》に飯炊《めしたき》の長助がむずかしい顔をして、黙って突っ立っていた。
「お菊どん。何処《どこ》へ……。お使《つかい》かい。」と、若い男の一人《ひとり》が何か戯《からか》いたそうな顔をして声をかけた。
「いいえ。」
 卒気《そっけ》ない返事を投げ返したままで、お菊は又そこを逃げるように通りぬけて、材木置場の入口へ出た。享保十二年九月三日の夕方で、浅黄がやがて薄白く暮れかかる西の空に紅い旗雲が一つ流れて、気の早い三日月が何時の間にか白い小舟の影を浮べていた。お菊はその空を少時《しばらく》瞰《み》上げていると、水を吹いて来る秋風が冷《ひや》々と身にしみて来た。和国橋の袂に一本しょんぼり[#「しょんぼり」に傍点]と立っている柳が顫えるように弱く靡いて、秋の寒さはその痩せ衰えた影から湧き出すように思われた。お菊は自分の身体を抱くように両袖をしっかり[#「しっかり」に傍点]掻き合せた。
「寧《いっ》そもう家へ逃げて帰ろうかしら、それとも長助どんに相談しようかしら。」
 お菊は思い余った胸を抱えて、何時《いつ》までもうっかり[#「うっかり」に傍点]と立っていた。彼女《かれ》は唯《た》った今、お内儀《かみ》さんのお常と朋輩のお久とから世に怖しいことを自分の耳へ吹き込まれたのであった。それは婿の又四郎に無理心中を仕掛けて呉れと云う相談で、彼女《かれ》も一時は吃驚《びっくり》して返事に困った。
 白子屋の主人庄三郎は極めて人の好《い》い、何方《どっち》かと云えば薄ぼんやりした質《たち》の人物で、家内のことは女房のお常が総《すべ》て切って廻していた。商売のことは手代の忠七が総て取仕切って引受けていた。お常は今年四十九の古女房であったが、若い時からの華美好《はでずき》で、その時代の商人《あきんど》の女房には似合わしからない贅沢三昧に白子屋の身代を殆ど傾け尽して了った。荷主には借金が嵩んで、どこの山からも荷を送って来なくなった。このままでいれば店を閉めるより他はないので、お常は一人娘のお熊が優れて美しいのを幸いに、持参金附の婿を探して身代の破綻《ほころび》を縫おうとした。数の多い候補者の中でお常の眼識《めがね》に叶った婿は、大伝馬町の地主弥太郎が手代又四郎という男で、彼は五百両という金の力で江戸中の評判娘の夫になろうと申込んで来た。
 お常は承知した。庄三郎は女房の御意次第で別に異存はなかった。しかし本人のお熊は納得しなかった。お熊は下女のお久の取持《とりもち》で手代の忠七と疾《と》うから起誓《きしょう》までも取交している仲であった。今更ほかの男を持っては忠七に済まないと彼女《かれ》は泣いて拒んだが、今のお常に取っては娘よりも恋よりも五百両の金が大切であった。彼女《かれ》は母の威光で娘を口説き伏せた。主《しゅう》の威光で手代を圧《おさ》え付けた。二人は泣いて諦めるより他はなかった。縁談は滑るように進んで、婚礼の日は漸次《しだい》に近づいた。三十四の又四郎と十八のお熊とが表向に夫婦の披露をしたのは、今から五年前の享保七年の冬であった。五百両の金が入ったので、義理の悪い借金は大抵片附いた。白子屋の店も蘇生《よみが》えったように景気を盛返した。又四郎は律義一方の男で商売にも精を出した。
 併しお常の華美や贅沢は矢はり止まなかった。お熊と忠七との縁も真実《ほんとう》に切れてはいなかった。こうした家庭がいつまでも円く治ってゆく筈はなかった。もともとが金を目的《めあて》に貰った婿であるから、月日の経つに従ってお常は又四郎を邪魔にし出した。お熊は勿論彼を嫌っていた。忠七も蔭に廻って色々の智慧を吹き込んだ。三人が暗い所に時々寄集って、何とかして又四郎を追い出したいと相談を凝したが、律義一方の婿の上から何かの落度を見付け出すということは頗る困難であった。理屈無しに彼を離婚するには忌が応でも持参金の五百両を附けて戻さなければならなかった。今の白子屋にその金のあろう筈はなかった。
 思案に行き詰まったお常は、或粉薬を飯にまぜて又四郎を鼠のように殺そうとしたが、飯炊の長助に妨げられて成功しなかった。その以来又四郎は余ほど警戒しているらしく見えるので、お常も迂闊に手を出すことが能《でき》なくなった。忠七は自棄《やけ》になって放蕩を始めた。お熊は嫉妬やら愚痴やらで毎日泣いた。お常もいよいよ焦《じ》れに焦れた末に、浅い女の胸の底からこんな苦しい智慧を絞り出した。
「お菊に心中を仕掛けさせ、それを科《とが》に又四郎を追い出そう。」
 その相談を第一に受けたのは、お気に入りのお久であった。彼女《かれ》はすぐに同意した。
「そうですね。お菊どんならば色は白し、眼鼻立もまんざらで無し、あれならば若旦那の相手だと云っても世間で承知しましょう。」
 所謂まんざらで無い容貌《きりょう》の持主に生れて、下女には惜《おし》いと皆なから眼をつけられていたお菊は不運であった。彼女《かれ》はお内儀《かみ》さんの前に呼び付けられて、お久の口を通しておそろしい役目を云い付けられた。若旦那の熟《よく》寝ているところへ忍んで行って、剃刀でその喉《のど》へ少しばかりの傷をつけてくれ。決して殺すには及ばない。唯ほんの微傷《かすりきず》でも付けてくれれば可《い》い。そうして、お前も喉を突く真似をしろ。そこへ誰かが飛び込んで取|鎮《しづ》めるから案じることはない。何故そんなことをしたかと調べられたら、お前は何にも云わずに泣いていれば可《い》い。唯それだけのことだとお久は云った。
「わたくしが若旦那様に傷を付ければ、どうなるのでございます。」と、年の若いお菊は顫えながら訊いた。
「約《つま》り若旦那がお前と密通していて、お前が心中を仕掛けたと云うことになる。そうすれば、若旦那も離縁になる。それがお店の為でもあり、お嬢さんの為でもある。勿論、皆なが承知のことだから、決してお前に科《とが》も難儀もかけまい。それを首尾よく仕負うせれば、お前もお暇になる代りに、十両のお金と別にお嬢さんの黄八丈のお小袖を下さる。お前それでも忌か。」と、お久は黄八丈という詞《ことば》に少し力を入れて低声《こごえ》で云い聞かせた。
 この春お熊が母と一所に回向院のお開帳へ参詣した時に、お菊も供をして行った。お熊の黄八丈の小袖が群集の中でも眼についた。店へ帰ってからお菊は嘆息を吐いてお久に囁いた。
「妾《わたし》も一生に一度でも可《い》いから、あんなお小袖を着て見たい。」
 お久はそれを能《よ》く記憶していて、今度の褒美に黄八丈の小袖を懸けたのであった。十両の金よりも、黄八丈がお菊の魂を唆かした。しかしそんな大それたことを引受けて可《い》いか悪いか、彼女《かれ》にも容易に分別が付かなかった。
「又四郎は心の好《よ》くない者だから離縁したいと思っているが、そこには何かの科《とが》がなければならない。お前が唯少しの微傷《かすりきず》[#ルビの「かすりきず」は底本では「かすりきづ」]を負わせてくれれば可《い》い。何の相手を殺せばこそ主殺しにもなろうが、ほんの微傷を付けた位のことは別に仔細もない。妾《わたし》達が呑込んでいて何事も内分に済ませる。あんな者に一生添わせて置いては、娘が如何にも可哀想だから、お前もそこを察して……この通り、主人が手をついて頼みます。」と、お常は鼻を詰らせて口説いた。
 あんな者に添わせて置いては娘が可哀想だ……これもお菊の心を動かした。若旦那の又四郎は主人として別に不足もない。入婿という遠慮もあろうが、眼下《めした》の者に対しても物柔かで、ついぞ主人風を吹かしたことも無い。暴《あら》い声で叱ったこともない。しかしそれを若いお内儀さんのお婿として看る時にはお菊の眼も又違って、平生《ふだん》から若いお内儀さんの不運をお気の毒だと思わないでもなかった。第一に若旦那は今年三十九で若いお内儀さんは二十三だという。その時代に於ては十六も年の違う夫婦は余り多くは見当らなかった。年の若いお菊にはそれが余りに不釣合のように思われた。まだその上に若旦那は色の黒い、骨の太い、江戸の人とは受取れないような、頑丈な不粋《ぶいき》な男振で、まるで若いお内儀さんとは比べ物にならなかった。何のこともない、五月人形の鐘馗様とお雛様とを組み合せたようなもので、余りに若いお内儀さんが痛々しかった。殊に新参ながらも入婿の事情を薄々知っているお菊は、五百両の金の型に身を売ったような若いお内儀さんの不運には愈《いよい》よ同情していた。
 他人の眼から見てすらもそうである。まして現在の阿母《おふくろ》様の身になったら、その不釣合も愈よ眼に立つことであろう。若いお内儀さんも可哀そうに思われることであろう。人の善い若旦那を指して、心の好くない者というのは、些《ちっ》と受取り難《にく》い話ではあるが、何方《どっち》にしても阿母様の心では若旦那を追い出したいに相違ない。それは無理もないことだと彼女《かれ》は思った。しかし自分がそんな空怖しい役目を引受けて、何の恨《うらみ》もない若旦那に無実の云い懸けをするなどとは、飛んでも無いことだと彼女《かれ》は又思った。
「切角ではございますが、これは他の事とも違います。またその相手も他のお方とは違います。仮にも御主人様と名の付く方に傷を付けるなどとは、考えても怖しいことでございます。どうぞこればかりは……。」
 お菊は一生懸命になって断ったが、お常は何《ど》うしても許さなかった。お久も肯《き》かなかった。このままにして置けば、お熊さんは前の川へ身を投げるに決っている。お前は若旦那に傷を付けるのを恐れながら、若いお内儀さんを見殺しにするのは何とも思わないのか。若旦那は婿である、若いお内儀さんは家附の娘である。お前はここの店の家来でありながら家附の娘を殺しても、入婿の若旦那に忠義を立てたいのか。それでは奉公の筋道が違いはしないかと、その時代の人には道理《もっとも》らしく聞えたような理屈責にして、お久は頻《しきり》にお菊の決心を促した。それでも彼女《かれ》は素直にその道理の前に屈伏することを躊躇した。まあ兎も角も明日まで待ってくれと、お菊は一寸《いっすん》逃れの返事をして、ようよう其処《そこ》から逃げ出して来たのであった。
「どうしたら可《よ》いだろう」
 彼女《かれ》はだんだんに暗くなってゆく水の色を眺めな
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