、お熊の眼からは真白な涙が糸を引いて流れた。罪人が引立てられて白洲を退《さが》る時に、お菊は容易に動かなかった。
「お慈悲でございます、お慈悲でございます。」と、彼女《かれ》は砂利の上を転げながら叫んだ。自分はこれまでに一度も悪いことをした覚えはない。今度のことも據《よんどこ》ろなく頼まれたのであると切《しき》りに訴えたが、彼女《かれ》の涙は名奉行の心を動かすことは能《でき》なかった。しかし名奉行にも涙が無いのではなかった。四人の中で三人は引廻しを申し渡されたにも拘らず、お菊だけは引廻しの恥を免れたのである。仮にも主人に刃《やいば》を向けた彼女《かれ》に対しては、この以上に寛大の仕置を加えようが無いのであった。又四郎その他の者はすべて御構い無しと申渡された。
 牢にいる間に、お熊は窃《そっ》とお菊に約束して、もしお前が命を助かったらば、妾《わたし》の形見として黄八丈の小袖を遣ろうと云った。しかしお菊も助からなかった。いよいよ申渡しを受けて牢屋へ帰った後、お菊もようよう覚悟したらしく、隙を見てお熊に囁いた。
「お内儀さん。お前がお仕置に出る時には、あの黄八丈を召して下さい。寧《いっ》そ思いを残すことが無くって可《よ》うございます。」
 お熊はさびしく微笑んだ。
 引廻しの三人はそれから二日経って仕置に行われた。お菊は更に三日の後に、牢内で斬られる筈であった。たとい三日でも仕置を延ばして呉れたのは、これも上の慈悲であった。
 お熊が引廻しの裸馬《はだかうま》に乗せられた時には、自分の家から差入れて貰った白無垢の上に黄八丈の小袖をかさねて、頸には水晶の珠数をかけていた。その朝は霜が一面に白く降っていた。これから江戸中の人の眼に晒されようとするお熊が黄八丈の姿を、お菊は牢格子の間から夢のように見送った。
[#地付き](『婦人公論』17[#「17」は縦中横]年6月号)



底本:「文藝別冊[総特集]岡本綺堂」河出書房新社
   2004(平成16)年1月30日発行
初出:「婦人公論」
   1917(大正6)年6月
入力:川山隆
校正:noriko saito
2008年5月9日作成
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