《かたびら》に兵子帯《へこおび》という若い男が入って来て、「例のは九円には売れまいか」というと、店員は「どうしてどうして」と頭《かしら》を掉《ふ》って、指を三本出す。男は「八なら此方《こちら》で買わあ、一万でも二万でも……」と笑いながら出て行く。電話の鈴《べる》は相変らず鳴っている。表を見ると、和服や洋服、老人やハイカラや小僧が、いわゆる「足《あし》も空《そら》」という形で、残暑の烈《はげ》しい朝の町を駈け廻っている。
私は椅子に腰をかけて、ただ茫然《ぼんやり》と眺めている中《うち》に、満洲従軍当時のありさまをふと思い泛《うか》んだ。戦場の混雑は勿論これ以上である。が、その混雑の間にも軍隊には一定の規律がある。人は総て死を期している。随って混雑極まる乱軍の中《うち》にも、一種冷静の気を見出すことが能《でき》る。しかもここの町に奔走している人には、一定の規律がない、各個人の自由行動である。人は総て死を期していない、寧《むし》ろ生きんがために焦《あせ》っているのである。随って動揺また動揺、何ら冷静の気を見出すことは能ない。
株式市場内外の混雑を評して、火事場のようだとはいい得るかも知れ
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