一日一筆
岡本綺堂
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)兜町《かぶとちょう》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)名優|田之助《たのすけ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「金+奇」、第3水準1−93−23]
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一 五分間
用があって兜町《かぶとちょう》の紅葉屋《もみじや》へ行く。株式仲買店である。午前十時頃、店は掻《か》き廻されるような騒ぎで、そこらに群がる男女《なんにょ》の店員は一分間も静坐《じっと》してはいられない。電話は間断《しきり》なしにチリンチリンいうと、女は眼を嶮《けわ》しくして耳を傾ける。電報が投げ込まれると、男は飛びかかって封を切る。洋服姿の男がふらり[#「ふらり」に傍点]と入って来て「郵船《ふね》は……」と訊《き》くと、店員は指三本と五本を出して見せる。男は「八五だね」とうなずいてまた飄然《ふらり》と出てゆく。詰襟の洋服を着た小僧が、汗を拭きながら自転車を飛ばして来る。上布《じょうふ》の帷子《かたびら》に兵子帯《へこおび》という若い男が入って来て、「例のは九円には売れまいか」というと、店員は「どうしてどうして」と頭《かしら》を掉《ふ》って、指を三本出す。男は「八なら此方《こちら》で買わあ、一万でも二万でも……」と笑いながら出て行く。電話の鈴《べる》は相変らず鳴っている。表を見ると、和服や洋服、老人やハイカラや小僧が、いわゆる「足《あし》も空《そら》」という形で、残暑の烈《はげ》しい朝の町を駈け廻っている。
私は椅子に腰をかけて、ただ茫然《ぼんやり》と眺めている中《うち》に、満洲従軍当時のありさまをふと思い泛《うか》んだ。戦場の混雑は勿論これ以上である。が、その混雑の間にも軍隊には一定の規律がある。人は総て死を期している。随って混雑極まる乱軍の中《うち》にも、一種冷静の気を見出すことが能《でき》る。しかもここの町に奔走している人には、一定の規律がない、各個人の自由行動である。人は総て死を期していない、寧《むし》ろ生きんがために焦《あせ》っているのである。随って動揺また動揺、何ら冷静の気を見出すことは能ない。
株式市場内外の混雑を評して、火事場のようだとはいい得るかも知れない。軍《いくさ》のような騒ぎという評は当らない。ここの動揺は確《たしか》に戦場以上であろうと思う。
二 ヘボン先生
今朝の新聞を見ると、ヘボン先生は二十一日の朝、米国のイーストオレンジに於て長逝《ちょうせい》せられたとある。ヘボン先生といえば、何人《なんぴと》もすぐに名優|田之助《たのすけ》の足を聯想し、岸田の精※[#「金+奇」、第3水準1−93−23]水《せいきすい》を聯想し、和英字書を聯想するが、私もこの字書に就ては一種の思い出がある。
私が十五歳で、築地の府立中学校に通っている頃、銀座の旧《きゅう》日報社の北隣《きたどなり》――今は額縁屋《がくぶちや》になっている――にめざまし[#「めざまし」に傍点]と呼ぶ小さい汁粉屋《しるこや》があって、またその隣に間口二|間《けん》ぐらいの床店《とこみせ》同様の古本店があった。その店頭《みせさき》の雑書の中に積まれていたのは、例のヘボン先生の和英字書であった。
今日《こんにち》ではこれ以上の和英字書も数種刊行されているが、その当時の我々は先《ま》ずヘボン先生の著作に縋《すが》るより他《ほか》はない。私は学校の帰途、その店頭に立って「ああ、欲《ほし》いなあ」とは思ったが、価《あたい》を訊《き》くと二円五十銭|也《なり》。無論、わたしの懐中《ふところ》にはない。しかも私は書物を買うことが好《すき》で、「お前は役にも立たぬ書物を無闇《むやみ》に買うので困る」と、毎々両親から叱られている矢先である。この際、五十銭か六十銭ならば知らず、二円五十銭の書物を買って下さいなどといい出しても、お小言《こごと》を頂戴して空しく引退《ひきさが》るに決っている。何とか好《いい》智慧《ちえ》はないか知らぬと帰る途次《みちみち》も色々に頭脳《あたま》を悩ました末に、父に対《むか》ってこういう嘘を吐《つ》いた。
学校では今月から会話の稽古《けいこ》が始まった。英語の書物を読むには英和の字書で済むが、英語の会話を学ぶには和英の字書がなくてはならぬ。就てはヘボン先生の和英字書を買ってもらいたい。殊《こと》に会話受持のチャペルという教師は、非常に点数の辛《から》い人であるから、会話の成績が悪いとあるいは落第するかも知れぬと実事《まこと》虚事《そらごと》打混《うちま》ぜて哀訴嘆願に及ぶと、案じるよりも産むが易《やす》く、ヘボンの字書なら
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