買ってもいいということになって、すぐに二円五十銭を渡された。父は私の申立《もうしたて》を一から十まで信用したかどうか判らないが、とにかくにヘボンの字書ならば買っておいても損はないという料見であったらしい。その当時に於ける彼の字書の信用は偉いものであった。
 その字書は今も私の書斎の隅に押込まれている。今日《こんにち》ではあまり用をなさないので、私も殆《ほとん》ど忘れていたが、今や先生の訃音《ふいん》を聞くと同時に、俄《にわか》にかの字書を思い出して、塵埃《ほこり》を掃《はた》いて出して見た。父は十年|前《ぜん》に死んだ。先生も今や亡矣《なし》。その当時十五歳の少年は、思い出多きこの字書に対して、そぞろに我身の秋を覚えた。簾《すだれ》の外には梧《きり》の葉が散る。[#地から1字上げ](明治四十四年九月)

     三 品川の台場

 陰《くも》った寒い日、私は高輪《たかなわ》の海岸に立って、灰色の空と真黒の海を眺めた。明治座一月興行の二番目を目下起稿中で、その第三幕目に高輪海岸の場がある。今初めてお目にかかる景色でもないが、とにかくに筆を執《と》るに当って、その実地を一度見たいというような考えで、わざわざここまで足を運んだのである。
 海岸には人家が連《つらな》ってしまったので、眺望《ながめ》が自由でない。かつは風が甚だしく寒いので、更に品川の町に入《い》り、海寄りの小料理屋へ上《あが》って、午餐《ひるめし》を喫《く》いながら硝子戸《がらすど》越しに海を見た。暗い空、濁った海。雲は低く、浪は高い。かの「お台場」は、泛《うか》ぶが如くに横《よこた》わっている。今更ではないが、これが江戸の遺物《かたみ》かと思うと、私は何とはなしに悲しくなった。
 今日《こんにち》の眼を以て、この台場の有用無用を論じたくない。およそ六十年の昔、初めて江戸の海にこれを築いた人々は、これに依《よっ》て江戸八百八町の人民を守ろうとしたのである。その当時の徳川幕府は金がなかった。已《や》むを得ずして悪い銀《かね》を造った、随って物価は騰貴《とうき》した、市民は難渋した。また一方には馴れない工事のために、多数の死人を出《いだ》した。かくの如く上下ともに苦《くるし》みつつ、予定の十一ヵ所を全部竣工するに至らずして、徳川幕府も亡びた、江戸も亡びた。しかも江戸の血を享《う》けた人は、これに依て江戸を安全ならしめようと苦心した徳川幕府の当路者《とうろしゃ》と、彼ら自身の祖先とに対して、努力の労を感謝せねばなるまい。
 今日は品川荒神《しながわこうじん》の秋季大祭とかいうので、品川の町から高輪へかけて往来が劇《はげ》しい。男も通る、女も通る、小児《こども》も通る。この人々の阿父《おとっ》さんや祖父《おじい》さんは、六十年|前《ぜん》にここを過ぎて、工事中のお台場を望んで、「まあ、これが出来れば大丈夫だ」と、心強く感じたに相違ない。しかもそれは殆ど何の用を為《な》さず、空しく渺茫《びょうぼう》たる海中に横わっているのである。
 荒神様へ詣《まい》るもよい。序《ついで》にここを通ったらば、霎時《しばらく》この海岸に立って、諸君が祖先の労苦を忍《しの》んでもらいたい。しかし電車で帰宅《かえり》を急ぐ諸君は、暗い海上などを振向いても見まい。

     四 日比谷公園

 友人と日比谷公園を散歩する。今日は風もなくて暖い。芝原に二匹の犬が巫山戯《ふざけ》ている。一匹は純白で、一匹は黒斑《くろぶち》で、どこから啣《くわ》えて来たか知らず、一足の古《ふる》草履《ぞうり》を奪合《ばいあ》って、追いつ追われつ、起きつ転《まろ》びつ、さも面白そうに狂っている。
「見給え、実に面白そうだね」と友人がいう。「むむ、いかにも無心に遊んでるのが可愛《かあい》い」といいながらふと見ると、白には頸環《くびわ》が附いている。黒斑の頸には何もない。「片方《かたっぽ》は野犬だぜ」というと、友人は無言にうなずいて、互に顔を見合せた。
 今、無心に睦《むつま》じく遊んでいる犬は、恐《おそら》く何にも知らぬであろうが、見よ、一方には頸環がある。その安全は保障されている。しかも他の一方は野犬である。何時《なんどき》虐殺の悲運に逢わないとも限らない。あるいは一時間|乃至《ないし》半時間の後《のち》には、残酷な犬殺しの獲物《えもの》となってその皮を剥《は》がれてしまうかも知れない。日暖き公園の真中《まんなか》で、愉快に遊び廻っている二匹の犬にも、これほどの幸不幸がある。
 犬は頸環に因《よっ》て、その幸と不幸とが直ちに知られる。人間にも恐らく眼に見えない運命の頸環が附いているのであろうが、人も知らず、我も知らず、いわゆる「一寸先は闇」の世を、何《いず》れも面白そうに飛び廻っているのである。我々もこうして暢気《のんき
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