磯部の若葉
岡本綺堂

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)湿《ぬ》らして

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)作者|竹田出雲《たけだいずも》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]
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 今日もまた無数の小猫の毛を吹いたような細かい雨が、磯部の若葉を音もなしに湿《ぬ》らしている。家々の湯の烟《けむり》も低く迷っている。疲れた人のような五月の空は、時々に薄く眼をあいて夏らしい光を微《かす》かに洩《もら》すかと思うと、またすぐに睡《ね》むそうにどんより[#「どんより」に傍点]と暗くなる。※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]《にわとり》が勇ましく歌っても、雀がやかましく囀《さえず》っても、上州の空は容易に夢から醒めそうもない。
「どうも困ったお天気でございます。」
 人の顔さえ見れば先《ま》ずこういうのが此頃《このごろ》の挨拶《あいさつ》になってしまった。廊下《ろうか》や風呂場で出逢う逗留の客も、三度の膳を運んで来る旅館の女中たちも、毎日この同じ挨拶を繰返している。私も無論その一人である。東京から一つの仕事を抱えて来て、ここで毎日原稿紙にペンを走らしている私は、他《ほか》の湯治客ほどに雨の日のつれづれに苦《くるし》まないのであるが、それでも人の口真似《くちまね》をして「どうも困ります」などといっていた。実際、湯治とか保養とかいう人たちは別問題として、上州のここらは今が一年中で最も忙がしい養蚕《ようさん》季節で、なるべく湿《ぬ》れた桑の葉をお蚕様《こさま》に食わせたくないと念じている。それを考えると「どうも困ります」も決して通り一遍の挨拶ではない。ここらの村や町の人たちに取っては重大の意味を有《も》っていることになる。土地の人たちに出逢った場合には、私も真面目《まじめ》に「どうも困ります」ということにした。
 どう考えても、今日も晴れそうもない。傘をさして散歩に出ると、到る処《ところ》の桑畑は青い波のように雨に烟っている。妙義《みょうぎ》の山も西に見えない、赤城《あかぎ》榛名《はるな》も東北に陰《くも》っている。蓑笠《みのかさ》の人が桑を荷《にな》って忙がしそうに通る、馬が桑を重そうに積んでゆく。その桑は莚《むしろ》につつんであるが、柔かそうな青い葉は茹《ゆで》られたようにぐったり[#「ぐったり」に傍点]と湿《ぬ》れている。私はいよいよ痛切に「どうも困ります」を感じずにはいられなくなった。そうして、鉛のような雨雲を無限に送り出して来るいわゆる「上毛《じょうもう》の三名山」なるものを呪《のろ》わしく思うようになった。

 磯部には桜が多い。磯部桜といえば上州の一つの名所になっていて、春は長野や高崎前橋から、見物に来る人が多いと、土地の人は誇っている。なるほど停車場《ていしゃじょう》に着くと直《すぐ》に桜の多いのが誰《たれ》の眼にも入る。路傍《みちばた》にも人家の庭にも、公園にも丘にも、桜の古木が枝をかわして繁っている。磯部の若葉は総て桜若葉であるといってもいい。雪で作ったような白い翅《つばさ》の鳩の群が沢山に飛んで来ると湯の町を一ぱいに掩《おお》っている若葉の光が生きたように青く輝いて来る。護謨《ごむ》ほうずきを吹くような蛙《かわず》の声が四方に起ると、若葉の色が愁うるように青黒く陰《くも》って来る。
 晴の使《つかい》として鳩の群が桜の若葉をくぐって飛んで来る日には、例の「どうも困ります」が暫《しば》らく取払われるのである。その使も今日は見えない。宿の二階から見あげると、妙義道《みょうぎみち》につづく南の高い崖路《がけみち》は薄黒い若葉に埋《うず》められている。
 旅館の庭には桜のほかに青梧《あおぎり》と槐《えんじゅ》とを多く栽えてある。痩《や》せた梧《きり》の青い葉はまだ大きい手を拡《ひろ》げないが、古い槐の新しい葉は枝もたわわに伸びて、軽い風にも驚いたように顫《ふる》えている。その他には梅と楓《かえで》と躑躅《つつじ》と、これらが寄集《よりあつま》って夏の色を緑に染めているが、これは幾分の人工を加えたもので、門を一歩出ると自然はこの町の初夏を桜若葉で彩《いろど》ろうとしていることが直《すぐ》に首肯《うなず》かれる。
 雨が小歇《おやみ》になると、町の子供や旅館の男が箒《ほうき》と松明《たいまつ》とを持って桜の毛虫を燔《や》いている。この桜若葉を背景にして、自転車が通る。桑を積んだ馬が行く。方々の旅館で畳替《たたみが》えを始める。逗留客が散歩に出る。芸妓《げいしゃ》が湯にゆく。白い鳩が餌《え》をあさる。黒い燕が往来《おうらい》中《なか》で
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