宙返りを打つ。夜になると、蛙が鳴く。梟《ふくろう》が鳴く。門附《かどづけ》の芸人が来る。碓氷川《うすいがわ》の河鹿《かじか》はまだ鳴かない。

 一昨年《おととし》の夏ここへ来た時に下磯部《しもいそべ》の松岸寺《しょうがんじ》へ参詣《さんけい》したが、今年も散歩ながら重ねて行った。それは「どうも困ります」の陰《くも》った日で、桑畑を吹《ふい》て来る湿った風は、宿の浴衣《ゆかた》の上にフランネルを襲《かさ》ねた私の肌に冷々《ひやひや》と沁《し》みる夕方であった。
 寺は安中路《あんなかみち》を東に切れた所で、ここら一面の桑畑が寺内《じない》までよほど侵入しているらしく見えた。しかし由緒ある古刹《こさつ》であることは、立派な本堂と広大な墓地とで容易に証明されていた。この寺は佐々木盛綱《ささきもりつな》と大野九郎兵衛《おおのくろべえ》との墓を所有しているので名高い。佐々木は建久のむかしこの磯部に城を構えて、今も停車場の南に城山の古蹟を残している位であるから、苔の蒼《あお》い墓石《ぼせき》は五輪塔のような形式で殆《ほとん》ど完全に保存されている。これに列《なら》んでその妻の墓もある。その傍《わき》には明治時代に新らしく作られたという大きい石碑もある。
 しかし私に取っては大野九郎兵衛の墓の方が注意を惹《ひ》いた。墓は大きい台石《だいいし》の上に高さ五尺ほどの楕円形の石を据《す》えてあって、石の表には慈望遊謙墓《じもうゆうけんはか》、右に寛延○年と彫ってあるが、磨滅しているので何年か能《よ》く読めない。墓の在所《ありか》は本堂の横手で、大きい杉の古木を背後《うしろ》にして、南に向って立っている。その傍《そば》にはまた高い桜の木が聳《そび》えていて、枝はあたかも墓の上を掩うように大きく差出ている。周囲には沢山の古い墓がある。杉の立木は昼を暗くするほどに繁っている。『仮名手本《かなでほん》忠臣蔵』の作者|竹田出雲《たけだいずも》に斧九太夫《おのくだゆう》という名を与えられて以来、殆ど人非人《にんぴにん》のモデルであるように洽《あまね》く世間に伝えられている大野九郎兵衛という一個の元禄武士は、ここを永久の住家《すみか》と定めているのである。
 一昨年初めて参詣した時には、墓の所在《ありか》が知れないので寺僧に頼んで案内してもらった。彼は品の好い若僧《にゃくそう》で、色々詳しく話してくれた。その話に拠《よ》ると、その当時この磯部には浅野家所領の飛び地が約三百石ほどあった。その縁故に因《よ》って大野は浅野家滅亡の後《のち》ここに来て身を落付けたらしい。そうして、大野ともいわず、九郎兵衛とも名乗らず、単に遊謙と称する一個の僧となって、小さい草堂《そうどう》を作って朝夕《ちょうせき》に経を読み、傍《かたわ》らには村の子供たちを集めて読み書きを指南していた。彼が直筆《じきひつ》の手本というものは今も村に残っている。磯部に於ける彼は決して不人望《ふじんぼう》ではなかった。弟子たちにも親切に教えた、色々の慈善をも施した。碓氷川の堤防も自費で修理した。墓碑に寛延の年号が刻んであるのを見るとよほど長命であったらしい。独身の彼は弟子たちの手に因ってその亡骸《なきがら》をここに葬られた。
「これだけ立派な墓が建てられているのを見ると、村の人にはよほど敬慕されていたんでしょうね」と、私はいった。
「そうかも知れません。」
 僧は彼に同情するような柔かい口吻《くちぶり》であった。たとい不忠者にもせよ、不義者にもあれ、縁あって我が寺内《じない》に骨を埋めたからは、平等の慈悲を加えたいという宗教家の温かい心か、あるいは別に何らかの主張があるのか、若い僧の心持《こころもち》は私には判らなかった。油蝉の暑苦しく鳴いている木の下で、私は厚く礼をいって僧と別れた。僧の痩《や》せた姿は大きな芭蕉の葉のかげへ隠れて行った。
 自己の功名の犠牲として、罪のない藤戸《ふじと》の漁民を惨殺した佐々木盛綱は、忠勇なる鎌倉武士の一人《いちにん》として歴史家に讃美されている。復讐の同盟に加わることを避けて、先君の追福と陰徳とに余生を送った大野九郎兵衛は、不忠なる元禄武士の一人として浄瑠璃の作者にまで筆誅《ひっちゅう》されてしまった。私はもう一度かの僧を呼び止めて、元禄武士に対する彼の詐《いつ》わらざる意見を問い糺《ただ》してみようかと思ったが、彼の迷惑を察して止《や》めた。
 今度行ってみると、佐々木の墓も大野の墓も旧《もと》のままで、大野の墓の花筒《はなづつ》には白い躑躅が生けてあった。かの若い僧が供えたのではあるまいか。私は僧を訪わずに帰ったが、彼の居間らしい所には障子が閉じられて、低い四つ目垣の裾に芍薬《しゃくやく》が紅《あか》く咲いていた。

 旅館の門を出て右の小道を這入《はい》ると、
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