丸い石を列《なら》べた七、八級の石段がある。登降《あがりおり》はあまり便利でない。それを登り尽した丘の上に、大きい薬師堂は東に向って立っていて、紅白の長い紐を垂れた鰐口《わにぐち》が懸《かか》っている。木連格子《きつれごうし》の前には奉納の絵馬も沢山に懸っている。め[#「め」に白丸傍点]の字を書いた額も見える。千社札も貼ってある。右には桜若葉の小高い崖をめぐらしているが、境内《けいだい》はさのみ広くもないので、堂の前の一段低いところにある家々の軒は、すぐ眼の下に連なって見える。私は時々にここへ散歩に行ったが、いつも朝が早いので、参詣らしい人の影を認めたことはなかった。
 それでもたった一度若い娘が拝んでいるのを見たことがある。娘は十七、八らしい、髪は油気の薄い銀杏返《いちょうがえ》しに結って、紺飛白《こんがすり》の単衣《ひとえもの》に紅い帯を締めていた。その風体《ふうてい》はこの丘の下にある鉱泉会社のサイダー製造に通っている女工らしく思われた。色は少し黒いが容貌《きりょう》は決して醜《みにく》い方ではなかった。娘は湿《ぬ》れた番傘を小脇に抱えたままで、堂の前に久しく跪《ひざまず》いていた。細かい雨は頭の上の若葉から漏れて、娘のそそけた鬢《びん》に白い雫《しずく》を宿しているのも何だか酷《むご》たらしい姿であった。私は少時《しばらく》立っていたが、娘は容易に動きそうもなかった。
 堂と真向いの家はもう起きていた。家の軒下には桑籠が沢山に積まれて、若い女房が蚕棚《かいこだな》の前に襷掛《たすきが》けで働いていた。若い娘は何を祈っているのか知らない。若い人妻は生活に忙がしそうであった。
 何処《どこ》かで蛙が鳴き出したかと思うと、雨はさあさあ[#「さあさあ」に傍点]と降って来た。娘はまだ一心に拝んでいた。女房は慌てて軒下の桑籠を片附け始めた。



底本:「岡本綺堂随筆集」岩波文庫、岩波書店
   2007(平成19)年10月16日第1刷発行
   2008(平成20)年5月23日第4刷発行
底本の親本:「五色筆」南人社
   1917(大正6)年11月初版発行
初出:「木太刀」
   1916(大正5)年7月号
入力:川山隆
校正:noriko saito
2008年11月29日作成
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