くれた。その話に拠《よ》ると、その当時この磯部には浅野家所領の飛び地が約三百石ほどあった。その縁故に因《よ》って大野は浅野家滅亡の後《のち》ここに来て身を落付けたらしい。そうして、大野ともいわず、九郎兵衛とも名乗らず、単に遊謙と称する一個の僧となって、小さい草堂《そうどう》を作って朝夕《ちょうせき》に経を読み、傍《かたわ》らには村の子供たちを集めて読み書きを指南していた。彼が直筆《じきひつ》の手本というものは今も村に残っている。磯部に於ける彼は決して不人望《ふじんぼう》ではなかった。弟子たちにも親切に教えた、色々の慈善をも施した。碓氷川の堤防も自費で修理した。墓碑に寛延の年号が刻んであるのを見るとよほど長命であったらしい。独身の彼は弟子たちの手に因ってその亡骸《なきがら》をここに葬られた。
「これだけ立派な墓が建てられているのを見ると、村の人にはよほど敬慕されていたんでしょうね」と、私はいった。
「そうかも知れません。」
僧は彼に同情するような柔かい口吻《くちぶり》であった。たとい不忠者にもせよ、不義者にもあれ、縁あって我が寺内《じない》に骨を埋めたからは、平等の慈悲を加えたいという宗教家の温かい心か、あるいは別に何らかの主張があるのか、若い僧の心持《こころもち》は私には判らなかった。油蝉の暑苦しく鳴いている木の下で、私は厚く礼をいって僧と別れた。僧の痩《や》せた姿は大きな芭蕉の葉のかげへ隠れて行った。
自己の功名の犠牲として、罪のない藤戸《ふじと》の漁民を惨殺した佐々木盛綱は、忠勇なる鎌倉武士の一人《いちにん》として歴史家に讃美されている。復讐の同盟に加わることを避けて、先君の追福と陰徳とに余生を送った大野九郎兵衛は、不忠なる元禄武士の一人として浄瑠璃の作者にまで筆誅《ひっちゅう》されてしまった。私はもう一度かの僧を呼び止めて、元禄武士に対する彼の詐《いつ》わらざる意見を問い糺《ただ》してみようかと思ったが、彼の迷惑を察して止《や》めた。
今度行ってみると、佐々木の墓も大野の墓も旧《もと》のままで、大野の墓の花筒《はなづつ》には白い躑躅が生けてあった。かの若い僧が供えたのではあるまいか。私は僧を訪わずに帰ったが、彼の居間らしい所には障子が閉じられて、低い四つ目垣の裾に芍薬《しゃくやく》が紅《あか》く咲いていた。
旅館の門を出て右の小道を這入《はい》ると、
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