ながらに煙草屋の店へ立寄ると、亭主は小声で言った。
「まったく相違ありません。隣りの家の切子《きりこ》は、石でも当ったように破れていて、誰がこんないたずらをしたんだろうと、おかみさんが言っていたそうです。お貞さんには別に変ったこともないようで、さっきまで店に出ていました。なにしろ不思議なこともあるもんですよ。」
「不思議ですねえ。」と、女房もただ溜息をつくばかりであった。
 この奇怪な物語はこれぎりで、お貞という娘はその後どうしたか、それは何にも伝わっていない。

     二 寺町の竹藪

 これはある老女の昔話である。
 老女は名をおなおさんといって、浅草の田島町に住んでいた。そのころの田島町は俗に北寺町と呼ばれていたほどで、浅草の観音堂と隣り続きでありながら、すこぶるさびしい寺門前の町であった。
 話は嘉永四年の三月はじめで、なんでもお雛さまを片付けてから二、三日過ぎた頃であると、おなおさんは言った。旧暦の三月であるから、ひとえの桜はもう花ざかりで、上野から浅草へまわる人跫《ひとあし》のしげき時節である。なま暖かく、どんよりと曇った日の夕方で、その頃まだ十一のおなおさんが近所の娘
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