いたそうです。
お貞さんは家の娘にその話をして、これがほんとうの正夢というのか、なにしろ生れてからあんなに怖い思いをしたことはなかったと言ったそうですが、お貞さんよりも、それを聞いた者の方が一倍気味が悪くなりました。その火の玉というのは一体なんでしょう。お貞さんが眠っているあいだに、その魂が自然にぬけ出して行ったのでしょうか。その以来、家の娘はなんだか怖いといって、お貞さんとはなるたけ附合わないようにしているくらいです。そういうわけですから、今夜の盆燈籠もやっぱりお貞さんかも知れませんね。小僧さんが石をぶつけたというから、お貞さんの家《うち》の盆燈籠が破れてでもいるか、それともお貞さんのからだに何か傷でもついているか、あしたになったらそれとなく探ってみましょう。」
こんな話を聞かされて、女房もいよいよ怖くなったが、まさかに、ここの家に泊めてもらうわけにもいかないので、亭主にはあつく礼をいって、怖々ながらここを出た。家へ帰り着くまでに再び火の玉にも盆燈籠にも出逢わなかったが、かれの着物は冷汗でしぼるようにぬれていた。
それから二、三日後に、亀田屋の女房はここを通って、このあいだの礼ながらに煙草屋の店へ立寄ると、亭主は小声で言った。
「まったく相違ありません。隣りの家の切子《きりこ》は、石でも当ったように破れていて、誰がこんないたずらをしたんだろうと、おかみさんが言っていたそうです。お貞さんには別に変ったこともないようで、さっきまで店に出ていました。なにしろ不思議なこともあるもんですよ。」
「不思議ですねえ。」と、女房もただ溜息をつくばかりであった。
この奇怪な物語はこれぎりで、お貞という娘はその後どうしたか、それは何にも伝わっていない。
二 寺町の竹藪
これはある老女の昔話である。
老女は名をおなおさんといって、浅草の田島町に住んでいた。そのころの田島町は俗に北寺町と呼ばれていたほどで、浅草の観音堂と隣り続きでありながら、すこぶるさびしい寺門前の町であった。
話は嘉永四年の三月はじめで、なんでもお雛さまを片付けてから二、三日過ぎた頃であると、おなおさんは言った。旧暦の三月であるから、ひとえの桜はもう花ざかりで、上野から浅草へまわる人跫《ひとあし》のしげき時節である。なま暖かく、どんよりと曇った日の夕方で、その頃まだ十一のおなおさんが近所の娘たち四、五人と往来で遊んでいると、そのうちの一人が不意にあら[#「あら」に傍点]と叫んだ。
「お兼ちゃん。どこへ行っていたの。」
お兼ちゃんというのは、この町内の数珠《じゅず》屋のむすめで、午《ひる》すぎの八つ(午後二時)を合図に、ほかの友達と一緒に手習いの師匠の家から帰った後、一度も表へその姿をみせなかったのである。お兼はおなおさんとおない年の、色の白い、可愛らしい娘で、ふだんからおとなしいので師匠にも褒められ、稽古朋輩にも親しまれていた。
このごろの春の日ももう暮れかかってはいたが、往来はまだ薄あかるいので、お兼ちゃんの青ざめた顔は誰の眼にもはっきりと見えた。ひとりが声をかけると、ほかの小娘も皆ばらばらと駈け寄ってかれのまわりを取巻いた。おなおさんも無論に近寄って、その顔をのぞきながら訊《き》いた。
「おまえさん、どうしたの。さっきからちっとも遊びに出て来なかったのね。」
お兼ちゃんは黙っていたが、やがて低い声で言った。
「あたし、もうみんなと遊ばないのよ。」
「どうして。」
みんなは驚いたように声をそろえて訊《き》くと、お兼はまた黙っていた。そうして、悲しそうな顔をしながら横町の方へ消えるように立去ってしまった。消えるようにといっても、ほんとうに消えたのではない。横町の角を曲っていくまで、そのうしろ姿をたしかに見たとおなおさんは言った。
その様子がなんとなくおかしいので、みんなも一旦は顔を見合せて、黙ってそのうしろ影を見送っていたが、お兼の立去ったのは自分の店と反対の方角で、しかもその横町には昼でも薄暗いような大きい竹藪のあることを思い出したときに、どの娘もなんだか薄気味わるくなって来た。おなおさんも俄かにぞっとした。そうして、言い合せたように一度に泣き声をあげて、めいめいの家《うち》へ逃げ込んでしまった。
おなおさんの家は経師《きょうじ》屋であった。手もとが暗くなったので、そろそろと仕事をしまいかけていたお父さんは、あわただしく駈け込んで来たおなおさんを叱りつけた。
「なんだ、そうぞうしい。行儀のわるい奴だ。女の児が日の暮れるまで表に出ていることがあるものか。」
「でも、お父《とっ》さん、怖かったわ。」
「なにが怖い。」
おなおさんから詳しい話を聞かされても、お父さんは別に気にも留めないらしかった。なぜ暗くなるまで外遊びをしていると、おっ母さん
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