にも叱られて、おなおさんはそのまま奥へ行って、親子三人で夕飯を食った。夜になって、お父さんは小僧と一緒に近所の湯屋へ行ったが、職人の湯は早い。やがて帰って来ておっ母さんにささやいた。
「さっきおなおが何を言っているのかと思ったらどうもおかしいよ。数珠屋のお兼ちゃんは見えなくなったそうだ。」
 それは湯屋で聞いた話であるが、お兼はきょうのお午《ひる》すぎに手習いから帰って来て、広徳寺前の親類まで使いに行ったままで帰らない。家でも心配して聞合せにやると、むこうへは一度も来ないという。どこにか路草を食っているのかとも思ったが、年のいかない小娘が日のくれるまで帰って来ないのは不思議だというので、親たちの不安はいよいよ大きくなって、さっきから方々へ手分けをして探しているが、まだその行くえが判らないとのことであった。
「こうと知ったら、さっきすぐに知らせてやればよかったんだが……。」と、お父さんは悔むように言った。
「ほんとうにねえ。あとで親たちに恨まれるのも辛《つら》いから、おまえさんこの子をつれてお兼ちゃんの家《うち》へ行っておいでなさいよ。遅まきでも、行かないよりはましだから。」と、おっ母さんはそばから勧めた。
「じゃあ、行って来ようか。」
 お父さんに連れられて、おなおさんは数珠屋の店へ出て行った。曇った宵はこの時いよいよ曇って今にも泣き出しそうな空の色がおなおさんの小さい胸をいよいよ暗くした。言いしれない不安と恐怖にとらわれて、おなおさんは泣きたくなった。数珠屋ではもう先に知らせて来たものがあったと見えて、夕方にお兼が姿をあらわしたことを知っていた。その竹藪はお寺の墓場につづいているので、お寺にも一応ことわって、大勢で今その藪のなかを探しているところだと言った。
「そうですか。じゃあ、わたしもお手伝いに行きましょう。」と、おなおさんのお父さんもすぐに横町の方へ行った。
 横町の角を曲ろうとするときに、お父さんはおなおさんを見返って言った。
「おまえなんぞは来るんじゃあねえ。早く帰れ。」
 言いすててお父さんは横町へかけ込んでしまった。それでも怖いもの見たさに、おなおさんはそっと伸び上がってうかがうと、暗い大藪の中には提灯の火が七つ八つもみだれて見えた。とぎれとぎれに人の呼びあうような声もきこえた。恐ろしいような、悲しいような心持で、おなおさんは早々に自分の家へかけて帰ったが、かれの眼はいつか涙ぐんでいた。おっ母さんに言いつけられて、小僧も横町の藪へ探しに行った。
 夜のふけた頃に、お父さんと小僧は近所の人たちと一緒に帰って来た。
「いけねえ。どうしても見つからねえ。なにしろ暗いので、あしたの事にするよりほかはねえ。」
 おなおさんはいよいよ悲しくなって、しくしくと泣き出した。おっ母さんも顔をくもらせて、お兼ちゃんは児柄《こがら》がいいから、もしや人攫《ひとさら》いにでも連れて行かれたのではあるまいかと言った。そんなことかも知れねえと、お父さんも溜息をついていた。まったくその頃には、人攫いにさらって行かれたとか、天狗に連れて行かれたとか、神隠しに遭ったとかいうような話がしばしば伝えられた。
「それだからお前も日が暮れたら、一人で表へ出るんじゃないよ。」と、おっ母さんはおどすようにおなおさんに言いきかせた。
 単におどすばかりでなく、現在お兼ちゃんの実例があるのであるから、おなおさんも唯おとなしくおっ母さんの説諭を聞いていると、おっ母さんはふと思い出したようにおなおさんに訊いた。
「ねえ、お前。お兼ちゃんはもうみんなと遊ばないよって言ったんだね。」
「そうよ。」
「それがおかしいね。」と、かれはお父さんの方へ向き直った。「してみると、人攫いや神隠しじゃあなさそうだと思われるが……。お兼ちゃんは自分の一料簡でどこへか姿を隠したんじゃないかねえ。」
「むむ。どうもわからねえな。」と、お父さんも首をかしげた。
 お兼はひとり娘で、親たちにも可愛がられている。まだ十一の小娘では色恋でもあるまい。それらを考えると、どうも自分の一料簡で家出や駈落ちをしそうにも思われない。結局その謎は解けないままで、経師屋の家では寝てしまった。おなおさんはやはり怖いような悲しいような心持で、その晩は安々と眠られなかった。
 あくる日になって、お兼のゆくえは判った。近所の竹藪などを掻きまわしていても所詮知れようはずはない。お兼はずっと遠い深川の果て、洲崎堤の枯蘆のなかにその亡骸《なきがら》を横たえているのを発見した者があった。お兼は腰巻ひとつの赤裸でくびり殺されていたのである。お兼は素足になっていたが、そこには同じ年頃らしい女の子の古下駄が片足ころげていた。更におどろかれるのは、年弱《としよわ》の二つぐらいと思われる女の児が、お兼の死骸のそばに泣いていた。これは着
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