物を着たままで、からだには何の疵もなかった。幸いに野良犬にも咬まれずに無事に泣きつづけていたらしい。その赤児から手がかりがついて、それは花川戸の八百留という八百屋の子であることが判った。
八百留には上総《かずさ》生れのお長ということし十三の子守女が奉公していて、その前日の午《ひる》すぎに、いつもの通り赤児を背負って出たままで、これも明くる朝まで帰らないので、八百留の家でも心配して心あたりを探し廻っているところであった。してみると、お長は洲崎堤でお兼を絞め殺して、その着物を剥ぎ取って、おそらくその下駄をもはきかえて、自分の背負っている赤児をそこへ置き捨てて、どこへか姿を隠したものであるらしい。ふたりがどうしてそんなところへ連れ立って行ったのか、それは勿論わからなかった。お兼を殺してその着物を剥ぎ取るつもりで、お長がお兼を誘い出したとすれば、まだ十三の小娘にも似合わぬ恐ろしい犯罪である。
お長の故郷は知れているので、とりあえず上総の実家を詮議すると、実家の方へは戻って来ないということであった。数珠屋では娘の死骸を引取って、型の如くに葬式をすませた。
それにしても不思議なのは、その日の夕方にお兼が自分の町内にすがたを現わして、おなおさんその他の稽古朋輩に暇乞いのような詞《ことば》を残して行ったことである。お兼はそれから深川へ行ったのか。それともかれはもう死んでいて、その魂だけが帰って来たのか。それも一つの疑問であった。おなおさんばかりでなく、そこにいた子供たちは同時に皆それを見たのであるから、思い違いや見損じであろうはずはない。
かれが竹藪の横町へ行くうしろ姿をみて、言い合せたようにみんなが怖くなったというのをみると、どこにか一種の鬼気が宿っていたのかも知れない。いずれにしても、おなおさんを初め近所の子供たちは、確かにお兼ちゃんの幽霊に相違ないと決めてしまって、その以来、日の暮れる頃まで表に出ている者はなかった。親たちも早く帰ってくるように、わが子供らを戒めていた。
しかし子供たちのことであるから、まったく遊びに出ないというわけにはいかない。それから十日あまりも過ぎた後、まだ七つ(午後四時)頃だからと油断して、おなおさん達が表に出て遊んでいると、ひとりがまた俄かに叫んだ。
「あら、お兼ちゃんが行く。」
今度は誰も声をかける者もなかった。子供たちは息を呑み込んで、身をすくめて、ただそのうしろ影を見送っていると、お兼ちゃんは手拭で顔をつつんで、やはりかの竹藪の横町の方へとぼとぼとあるいて行った。もちろんその跡を付けて行こうとする者もなかった。しかもそのうしろ姿が横町へ消えるのを見届けて、子供たちは一度にばらばらと駈け出した。今度は逃げるのでない、すぐに自分の親たちのところへ注進に行ったのであった。
その注進を聞いて、町内の親たちが出て来た。経師屋のお父さんも出て来た。数珠屋からは勿論に駈け出して来た。大勢があとや先になって横町へ探しに行くと、お兼らしい娘のすがたは容易に見付からなかった。それでも竹藪をかき分けて根《こん》よく探しまわると、藪の出はずれの、やがて墓場に近いところに大きい椿が一本立っている。その枝に細紐をかけて、お兼らしい娘がくびれ死んでいるのを発見した。お兼ちゃんの着物をきていたので、子供たちは一途《いちず》にお兼ちゃんと思い込んだのであるが、それはかの八百留の子守のお長であった。
お兼の着物を剥ぎとって、それを自分の身につけて、お長はこの十日あまりを何処で過したか判らない。そうして、あたかもお兼に導かれたように、この藪の中へ迷って来て、かれの短い命を終ったのである。お長は田舎者まる出しの小娘で、ふだんから小汚ない手織縞の短い着物ばかりを着ていたから、色白の可愛らしいお兼が小綺麗な身なりをしているのを見て、羨ましさの余りに、ふとおそろしい心を起したのであろうという噂であったが、それも確かなことは判らなかった。それにしてもお長がどうしてお兼を誘って行ったか、このふたりが前からおたがいに知り合っていたのか、それらのことも結局わからなかった。
こうして、何事も謎のままで残っているうちにも、最初にあらわれたお兼のことが最も恐ろしい謎であった。
「あたし、もうみんなと遊ばないのよ。」
お兼ちゃんの悲しそうな声がいつまでも耳に残っていて、その当座は怖い夢にたびたびうなされましたと、おなおさんは言った。
三 龍を見た話
ここにはまた、龍をみたために身をほろぼしたという人がある。それは江戸に大地震のあった翌年で、安政三年八月二十五日、江戸には凄まじい暴風雨が襲来して、震災後ようやく本普請の出来あがったもの、まだ仮普請のままであるもの、それらの家々の屋根は大抵吹きめくられ、吹き飛ばされてしまった。その上に
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