津波のような高波が打寄せて来て、品川や深川の沖にかかっていた大船小舟はことごとく浜辺に打揚げられた。本所、深川には出水して、押流された家もあった。溺死した者もあった。去年の地震といい、ことしの風雨《あらし》といい、江戸の人々もずいぶん残酷に祟《たた》られたといってよい。
その暴風雨の最も猛烈をきわめている二十五日の夜の四つ(午後十時)過ぎである。下谷御徒町《したやおかちまち》に住んでいる諸住《もろずみ》伊四郎という御徒士《おかち》組の侍が、よんどころない用向きの帰り路に日本橋の浜町河岸を通った。
彼はこの暴風雨を冒《おか》して、しかも夜ふけになぜこんなところを歩いていたかというと、新大橋の袂にある松平相模守の下屋敷に自分の叔母が多年つとめていて、それが急病にかかったという通知をきょうの夕刻に受取ったので、伊四郎は取りあえずその見舞に駈け付けたのである。叔母はなにかの食あたりであったらしく、一時はひどく吐瀉《としゃ》して苦しんだ。なにぶん老年のことでもあるので、屋敷の者も心配して、早速に甥の伊四郎のところへ知らせてやったのであったが、思いのほかに早く癒って、伊四郎が駈け付けた頃にはもう安らかに床の上に横たわっていた。急激の吐瀉でもちろん疲労しているが、もう心配することはないと医者はいった。平生が達者な質《たち》であるので叔母も元気よく口をきいて、早速見舞に来てくれた礼を言ったりしていた。伊四郎もまず安心した。
しかしわざわざ出向いて来たのであるから、すぐに帰るというわけにもいかないので、病人の枕もとで暫く話しているうちに、雨も風も烈しくなって来た。そのうちには小歇《こや》みになるだろうと待っていたが、夜のふけるにつれていよいよ強くなるらしいので、伊四郎も思い切って出ることにした。叔母はいっそ泊って行けと言ったが、よその屋敷の厄介になるのも心苦しいのと、この風雨では自分の家のことも何だか案じられるのとで、伊四郎は断ってそこを出た。
出てみると、内で思っていたよりも更に烈しい風雨であった。とても一と通りのことでは歩かれないと覚悟して、伊四郎は足袋をぬいで、袴の股立《ももだ》ちを高く取って、素足になった。傘などは所詮なんの役にもたたないので、彼は手拭で頬かむりをして、片手に傘と下駄をさげた。せめて提灯だけはうまく保護して行こうと思ったのであるが、それも五、六間あるくうちに吹き消されてしまったので、彼は真っ暗な風雨のなかを北へ北へと急いで行った。
今と違って、その当時ここらは屋敷つづきであるので、どこの長屋窓もみな閉じられて、灯のひかりなどはちっとも洩れていなかった。片側は武家屋敷、片側は大川であるから、もしこの暴風雨に吹きやられて川のなかへでも滑り込んだら大変であると、伊四郎はなるべく屋敷の側に沿うて行くと、時どきに大きい屋根瓦ががらがら[#「がらがら」に傍点]くずれ落ちてくるので、彼はまたおびやかされた。風は東南《たつみ》で、彼にとっては追い風であるのがせめてもの仕合せであったが、吹かれて、吹きやられて、ややもすれば吹き飛ばされそうになるのを、彼は辛くも踏みこたえながら歩いた。滝のようにそそぎかかる雨を浴びて、彼は骨までも濡れるかと思った。その雨にまじって、木の葉や木の枝は勿論、小石や竹切れや簾《すだれ》や床几や、思いも付かないものまでが飛んでくるので、彼は自分のからだが吹き飛ばされる以外に、どこからともなしに吹き飛ばされてくる物をも防がなければならなかった。
「こうと知ったら、いっそ泊めてもらえばよかった。」と、彼は今更に後悔した。
さりとて再び引っ返すのも難儀であるので、伊四郎はもろもろの危険を冒して一生懸命に歩いた。そうして、ともかくも一町あまりも行き過ぎたと思うときに、彼はふと何か光るものをみた。大川の水は暗く濁っているが、それでもいくらかの水あかりで岸に沿うたところはぼんやりと薄明るく見える。その水あかりを頼りにして、彼はその光るものを透かしてみると、それは地を這っているものの二つの眼であった。しかしそれは獣《けもの》とも思われなかった。二つの眼は風雨に逆らってこっちへ向ってくるらしいので、伊四郎はともかくも路ばたの大きい屋敷の門前に身をよせて、その光るものの正体をうかがっていると、何分にも暗いなかではっきりとは判らないが、それは蛇か蜥蝪《とかげ》のようなもので、しずかに地上を這っているらしかった。この風雨のためにどこから何物が這い出したのかと、伊四郎は一心にそれを見つめていると、かれは長い大きいからだを曳きずって来るらしく、濡れた土の上をざらりざらりと擦《こす》っている音が風雨のなかでも確かにきこえた。それはすこぶる巨大なものらしいので、伊四郎はおどろかされた。
かれはだんだんに近づいて、伊四郎のひそんでい
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