もある。女房もそれを見込んで今夜の供につれて来たくらいであるから、最初こそは燈籠の不思議を怪しんでいたが、だんだんに度胸がすわって来て、かれはこの不思議を狐か狸のいたずらと決めてしまった。かれは提灯のひかりでそこらを照らしてみて、路ばたに転がっている手頃の石を二つ三つ拾って来た。
「あれ、およしよ。」
 あやぶんで制する女房に提灯をあずけて、熊吉は両手にその石を持って、燈籠のゆくえを睨んでいると、それがまたうす明るくなった。そうして、向きを変えてこっちへ舞いもどって来たかと思うと、あたかも火取り虫が火にむかってくるように、女房の持っている提灯を目がけて一直線に飛んで来たので、女房はきゃっといって提灯を投げ出して逃げた。
「畜生!」
 熊吉はその燈籠に石をたたきつけた。慌てたので、第一の石は空《くう》を打ったが、つづいて投げつけた第二の礫《つぶて》は燈籠の真っ唯中にあたって、確かに手ごたえがしたように思うと、燈籠の影は吹き消したように闇のなかに隠れてしまった。そのあいだに、女房は右側の店屋の大戸を一生懸命に叩《たた》いた。かれはもう怖くてたまらないので、どこでも構わずにたたき起して、当座の救いを求めようとしたのであった。一旦消えた燈籠は再びどこからか現れて、あたかも女房が叩いている店のなかへ消えていくように見えたので、かれはまたきゃっと叫んで倒れた。
 叩かれた家では容易に起きて来なかったが、その音におどろかされて隣りの家から四十前後の男が半裸体のような寝巻姿で出て来た。かれは熊吉と一緒になって、倒れている女房を介抱しながら自分の家へ連れ込んだ。その店は小さい煙草屋であった。気絶こそしないが、女房はもう真っ蒼になって動悸のする胸を苦しそうに抱えているので、亭主の男は家内の物を呼び起して、女房に水を飲ませたりした。ようやく正気にかえった女房と小僧から今夜の出来事をきかされて、煙草屋の亭主も眉をよせた。
「その燈籠はまったく隣りの家《うち》へはいりましたかえ。」
 たしかにはいったと二人が言うと、亭主はいよいよ顔をしかめた。その娘らしい十七八の若い女も顔の色を変えた。
「なるほど、そうかも知れません。」と、亭主はやがて言い出した。「それはきっと隣りの娘ですよ。」
 女房はまた驚かされた。かれは身を固くして相手の顔を見つめていると、亭主は小声で語った。
「隣りの家は小間物屋で、主人は六年ほど前に死にまして、今では後家の女あるじで、小僧ひとりと女中一人、小体《こてい》に暮らしてはいますけれど、ほかに家作《かさく》なども持っていて、なかなか内福だということです。ところが、お貞さんというひとり娘……ことし十八で、わたしの家《うち》の娘とも子供のときからの遊び友達で、容貌《きりょう》も悪くなし、人柄も悪くない娘なのですが、半年ほど前にもこんなことがありました。
 なんでも正月の暗い晩でしたが、やはり夜ふけに隣りの戸を叩く音がきこえる、わたしは眼ざといもんですから、何事かと思って起きて出ると、侍らしい人が隣りのおかみさんを呼出して何か話しているようでしたが、やがてそのまま立去ってしまったので、わたしもそのままに寝てしまいました。すると、あくる日になって、となりのお貞さんが家《うち》の娘にこんなことを話したそうです。わたしはゆうべぐらい怖かったことはない。なんでも暗いお堀端のようなところを歩いていると、ひとりのお侍が出て来て、いきなり刀をぬいて斬りつけようとする。逃げても、逃げても、追っかけてくる。それでも一生懸命に家まで逃げて帰って、表口から転げるように駈け込んで、まあよかったと思うと夢がさめた。そんなら夢であったのか。どうしてこんな怖い夢を見たのかと思う途端に、表の戸を叩く音がきこえて、おっ母さんが出てみると、表には一人のお侍が立っていて、その人のいうには、今ここへくる途中で往来のまん中に火の玉のようなものが転げあるいているのを見た……。」
 聞いている女房はまたも胸の動悸が高くなった。亭主は一と息ついてまた話し出した。
「そこでそのお侍は、きっと狐か狸がおれを化かすに相違ないと思って、刀を抜いて追いまわしているうちに、その火の玉は宙を飛んでここの家へはいった。ほんとうの火の玉か、化物か、それは勿論判らないが、なにしろここの家へ飛び込んだのを確かに見届けたから、念のために断って置くとかいうのだそうです。となりの家でも気味悪がって、すぐにそこらを検《あらた》めてみだが、別に怪しい様子もないので、お侍にそう言うと、その人も安心した様子で、それならばいいと言って帰った。お貞さんも奥でその話を聞いていたので、寝床から抜出してそっと表をのぞいてみると、店先に立っている人は自分がたった今、夢の中で追いまわされた侍そのままなので、思わず声をあげたくらいに驚
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