て来た。
 踊り屋台はぬれながら町内を練り廻った。囃子の音が浮いてきこえた。屋台の軒にも牡丹のような紅い提灯がゆらめいて――それおぼえてか君さまの、袴も春のおぼろ染――滝夜叉がしどけない細紐《しごき》をしゃんと結んで少しく胸をそらしたときに、往来を真っ黒にうずめている見物の雨傘が一度にゆらいだ。
「うまいねえ。」
「上手だねえ。」
「そりゃほんとの役者だもの。」
 こんな褒めことばが、そこにもここにもささやかれた。
 お玉さんの家の人たちも格子のまえに立って、同じくこの踊り屋台を見物していたが、お玉さんの阿母さんはさも情けないというように顔をしかめて、誰にいうともなしに舌打ちしながら小声でののしった。
「なんだろう、こんな小穢いものを……。芸は下手でも上手でも、お祭りには町内の娘さん達が踊るもんだ。こんな乞食芝居みたいなものを何処からか引っ張って来やあがって、お祭りもないもんだ。ああ、いやだ、いやだ。長生きはしたくない。」
 こう言って阿母さんは内へつい[#「つい」に傍点]と引っ込んでしまった。お玉さんも徳さんもつづいてはいってしまった。
「鬼婆め、お株を言っていやあがる。長生きがしたくなければ、早くくたばってしまえ。」と、花笠をかぶった一人が罵った。
 それが讖《しん》をなしたわけでもあるまいが、阿母さんはその年の秋からどっと寝付いた。その頃には庭の大きい柿の実もだんだん紅《あか》らんで、近所のいたずら小僧が塀越しに竹竿を突っ込むこともあったが、阿母さんは例の「誰だい」を呶鳴る元気もなかった。そうして、十一月の初めにはもう白木の棺にはいってしまった。さすがに見ぬ顔もできないので、葬式には近所の人が五、六人見送った。おなじ仲間の職人も十人ばかり来た。寺は四谷の小さい寺であったが、葬儀の案外立派であったのには、みんなもおどろかされた。当日の会葬者一同には白強飯《しろおこわ》と煮染《にしめ》の辨当が出た。三十五日には見事な米饅頭と麦饅頭との蒸し物に茶を添えて近所に配った。
 万事が案外によく行きとどいているので、近所の人たちも少し気の毒になったのと、もう一つは口やかましい阿母さんがいなくなったというのが動機になって、以前よりは打ち解けて付き合おうとする人も出来たが、なぜかそれも長くはつづかなかった。三月半年と経つうちに、近所の人はだんだんに遠退いてしまって、お玉さんの兄妹《きょうだい》はふたたび元のさびしい孤立のすがたに立ちかえった。
 それでも或る世話好きの人がお玉さんに嫁入りさきを媒妁しようと、わざわざ親切に相談にゆくとお玉さんは切り口上で断わった。
「どうで異人の妾だなんていわれた者を、どこでも貰って下さる方はありますまい。」
 その人も取り付く島がないので引きさがった。これに懲りて誰もその後は縁談などを言い込む人はなかった。
 詳しく調べたならば、その当時まだほかにもいろいろの出来事があったかも知れないが、学校時代のわたしはこうした問題に就いてあまり多くの興味をもっていなかったので、別に穿索もしなかった。むかしのお玉さん一家に関して、わたしの幼い記憶に残っているのは先ずこのくらいのことに過ぎなかった。
 こんなことをそれからそれへと手繰り出して考えながら、わたしはいつの間にか流し場へ出て、半分は浮わの空で顔や手足を洗っていた。石鹸の泡が眼にしみたのにおどろいて、わたしは水で顔を洗った。それから風呂へはいって、再び柚湯に浸っていると、薬局生もあとからはいって来た。そうして、又こんなことを話しかけた。
「あの徳さんという人は、まあ行き倒れのように死んだんですね。」
「行き倒れ……。」と、私は又おどろいた。
「病気が重くなっても、相変わらず自分の方から診察を受けにかよって来ていたんです。そこで、けさも家を出て、薬壜をさげてよろよろと歩いてくると、床屋の角の電信柱の前でもう歩けなくなったんでしょう、電信柱に倚《よ》り掛かってしばらく休んでいたかと思ううちに、急にぐたぐたと頽《くず》れるように倒れてしまったんです。床屋でもおどろいて、すぐに店へかかえ込んで、それから私の家《うち》へ知らせて来たんですが、先生の行った頃にはもういけなくなっていたんです。」
 こんな話を聴かされて、私はいよいよ情けなくなって来た。折角の柚湯にも好い心持に浸っていることは出来なくなった。私はからだをなま拭きにして早々に揚がってしまった。

     二

 家へ帰ってからも、徳さんとお玉さんとのことが私の頭にまつわって離れなかった。殊にきょうの柚湯については一つの思い出があった。
 わたしは肩揚げが取れてから下町《したまち》へ出ていて、山の手の実家へは七、八年帰らなかった。それが或る都合で再び帰って住むようになった時には、私ももう昔の子供ではなかった。十二
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