月の或る晩に遅く湯に行った。今では代が変わっているが、湯屋はやはりおなじ湯屋であった。わたしは夜の湯は嫌いであるが、その日は某所の宴会へ行ったために帰宅が自然遅くなって、よんどころなく夜の十一時頃に湯に行くことになった。その晩も冬至の柚湯で、仕舞湯に近い濁った湯風呂の隅には、さんざん煮くたれた柚の白い実が腐った綿のように穢《きたな》らしく浮いていた。わたしは気味悪そうにからだを縮めてはいっていた。もやもやした白い湯気が瓦斯のひかりを陰らせて、夜ふけの風呂のなかは薄暗かった。
――常から主《ぬし》の仇な気を、知っていながら女房に、なって見たいの慾が出て、神や仏を頼まずに、義理もへちまの皮羽織――
少し錆のある声で清元を唄っている人があった。音曲に就いては、まんざらのつんぼうでもない私は、その節廻しの巧いのに驚かされた。じっと耳をかたむけながら其の声のぬしを湯気のなかに透かしてみると、それはかの徳さんであった。徳さんが唄うことは私も子供のときから知っていたが、こんなに好い喉《のど》をもっていようとは今まで思いも付かなかった。琵琶歌や浪花節が無遠慮に方々の湯屋を掻きまわしている世のなかに、清元の神田祭――しかもそれを偏人のように思っていた徳さんの喉から聞こうとは、まったく思いがけないことであった。
私のほかには商家の小僧らしいのが二人はいっているきりであった。徳さんは好い心持そうに続けて唄っていた。しみじみと聴いているうちに、私はなんだか寂しいような暗い気分になって来た。お玉さんの兄妹が今の元園町に孤立しているのも、無理がないようにも思われて来た。
「どうもおやかましゅうございました。」
徳さんは好い加減に唄ってしまうと、誰にいうともなしに挨拶して、流し場の方へすたすた出て行ってしまった。そうして、手早くからだを拭いて揚がって行った。私もやがてあとから出た。露地へさしかかった時には、徳さんの家はもう雨戸を閉めて燈火《あかり》のかげも洩れていなかった。霜ぐもりともいいそうな夜の空で、弱々しい薄月のひかりが庭の八つ手の葉を寒そうに照らしていた。
わたしは毎日大抵明かるいうちに湯にゆくので、その柚湯の晩ぎりで再び徳さんの唄を聴く機会がなかった。それから半年以上も過ぎた或る夏の晩に又こんなことがあった。わたしが夜の九時頃に涼みから帰ってくると、徳さんの家のなかから劈《さ》くような女の声がひびいた。格子の外には通りがかりの人や近所の子供がのぞいていた。
「なんでえ、畜生! ざまあ見やがれ。うぬらのような百姓に判るもんか。」
それはお玉さんの声らしいので、私はびっくりした。なにか兄妹喧嘩でも始めたのかとも思った。店さきに涼んでいる八百屋のおかみさんに訊くと、おかみさんは珍らしくもないという顔をして笑っていた。
「ええ、気ちがいが又あばれ出したんですよ。急に暑くなったんで逆上《のぼ》せたんでしょう。」
「お玉さんですか。」
「もう五、六年まえからおかしいんですよ。」
わたしは思わず戦慄した。わたしにはそれが初耳であった。お玉さんはわたしが下町へ行っているあいだに、いつか気ちがいになっていたのであった。わたしが八百屋のおかみさんと話しているうちにも、お玉さんは何かしきりに呶鳴っていた。息もつかずに「べらぼう、畜生」などと罵っていた。徳さんの声はちっとも聞こえなかった。
家《うち》へ帰ってその話をすると、家の者もみんな知っていた。お玉さんの気ちがいということは町内に隠れもない事実であったが、その原因は誰にも判らなかった。しかし別に乱暴を働くというのでもなく、夏も冬も長火鉢のまえに坐って、死んだようにふさいでいるかと思うと、時々だしぬけに破れるような大きい声を出して、誰を相手にするともなしに「なんでえ、畜生、べらぼう、百姓」などと罵りはじめるのであった。兄の徳さんも近頃は馴れたとみえて、別に取り鎮めようともしない。気のおかしい妹一人に留守番をさせて、平気で仕事に出てゆく。近所でも初めは不安に思ったが、これもしまいには馴れてしまって別に気に止める者もなくなった。
お玉さんは自分で髪を結う、行水《ぎょうずい》をつかう、気分のいい時には針仕事などもしている。そんな時にはなんにも変わったことはないのであるが、ひと月か二月に一遍ぐらい急にむらむらとなって、例の「畜生、べらぼう」を呶鳴り始める。それが済むと、狐が落ちたようにけろり[#「けろり」に傍点]としているのであった。気ちがいというほどのことではない、一種のヒステリーだろうと私は思っていた。気ちがいにしても、ヒステリーにしても、一人の妹があの始末ではさぞ困ることだろうと、わたしは徳さんに同情した。ゆず湯で清元を聴かされて以来、わたしは徳さんの一家を掩っている暗い影を、いたましく眺めるようにな
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