りには雇人の口入屋《くちいれや》があった。どういうわけか、お玉さんの家とその口入屋とはひどく仲が悪くって、いつも喧嘩が絶えなかった。
 わたしが引っ越して来た頃には、お玉さんのお父さんという人はもう生きていなかった。阿母《おっか》さんと兄の徳さんとお玉さんと、水入らずの三人暮らしであった。
 阿母さんの名は知らないが、年の頃は五十ぐらいで、色の白い、痩形で背のたかい、若いときにはまず美《い》い女の部であったらしく思われる人であった。徳さんは廿四五で顔付きもからだの格好も阿母さんに生き写しであったが、男としては少し小柄の方であった。それに引きかえて妹のお玉さんは眼鼻立ちこそ兄さんに肖《に》ているが、むしろ兄さんよりも大柄の女で、平べったい顔と厚ぼったい肉とをもっていた。年は二十歳《はたち》ぐらいで、いつも銀杏がえしに髪を結って、うすく白粉をつけていた。
 となりの口入屋ばかりでなく、近所の人はすべてお玉さん一家に対してあまり好い感情をもっていないらしかった。お玉さん親子の方でも努めて近所との付き合いを避けて、孤立の生活に甘んじているらしかった。阿母さんは非常に口やかましい人で、私たちの子供仲間からは左官屋の鬼婆と綽名《あだな》されていた。
 お玉さんの家《うち》の格子のまえには古風の天水桶があった。わたし達がもしその天水桶のまわりに集まって、夏はぼうふらを探し、冬は氷をいじったりすると、阿母さんは忽ちに格子をあけて、「誰だいいたずらをするのは……」と、かみ付くように呶鳴り付けた。雨のふる日に露地をぬける人の傘が、お玉さんの家の羽目か塀にがさりとでもさわる音がすると、阿母さんはすぐに例の「誰だい」を浴びせかけた。わたしも学校のゆきかえりに度々この阿母さんから「誰だい」と叱られた。
 徳さんは若い職人に似合わず、無口で陰気な男であった。見かけは小粋な若い衆であったが、町内の祭りなどにもいっさい係り合ったことはなかった。その癖、内で一杯飲むと、阿母さんやお玉さんの三味線で清元や葉唄を歌ったりしていた。お玉さんが家じゅうで一番陽気な質《たち》らしく、近所の人をみればいつもにこにこ笑って挨拶していた。しかし、阿母さんや兄さんがこういう風変わりであるので、娘盛りのお玉さんにも親しい友達はなかったらしく、麹町通りの夜店をひやかしにゆくにも、平河天神の縁日に参詣するにも、お玉さんはいつも阿母さんと一緒に出あるいていた。ときどきに阿母さんと連れ立って芝居や寄席へ行くこともあるらしかった。
 この一家は揃って綺麗好きであった。阿母さんは日に幾たびも格子のまえを掃いていた。お玉さんも毎日かいがいしく洗濯や張り物などをしていた。それで決して髪を乱していたこともなく、毎晩かならず近所の湯に行った。徳さんは朝と晩とに一日二度ずつ湯にはいった。
 徳さん自身は棟梁株ではなかったが、一人前の職人としては相当の腕をもっているので、別に生活に困るような風はみせなかった。お玉さんもいつも小綺麗な装《なり》をしていた。近所の噂によると、お玉さんは一度よそへ縁付いて子供まで生んだが、なぜだか不縁になって帰って来たのだということであった。そのせいか、私がお玉さんを知ってからもう三、四年も経っても、嫁にゆくような様子は見えなかった。お玉さんもだんだんに盛りを通り過ぎて、からだの幅のいよいよ広くなってくるのばかりが眼についた。
 そのうちに誰が言い出したのか知らないが、お玉さんには旦那があるという噂が立った。もちろん旦那らしい人の出入りする姿を見かけた者はなかったが、お玉さんの方から泊まりにゆくのだと、ほんとうらしく吹聴《ふいちょう》する者もあった。その旦那は異人さんだと言う者もあった。しかし、それにはどれも確かな証拠はなかった。このけしからぬ噂がお玉さん一家の耳にも響いたらしく、その後のお玉さんの様子はがらりと変わって、買物にでも出るほかには、めったにその姿を世間へ見せないようになった。近所の人たちに逢っても情《すげ》なく顔をそむけて、今までのようなにこにこした笑い顔を見せなくなった。三味線の音もちっとも聞かせなくなった。
 なんでもその明くる年のことと記憶している。日枝《ひえ》神社の本祭りで、この町内では踊り屋台を出した。しかし町内には踊る子が揃わないので、誰かの発議でそのころ牛込の赤城下にあった赤城座《あかぎざ》という小芝居の役者を雇うことになった。役者はみんな十五六の子供で、嵯峨や御室の光国と滝夜叉と御注進の三人が引き抜いてどんつく[#「どんつく」に傍点]の踊りになるのであった。この年の夏は陽気がおくれて、六月なかばでも若い衆たちの中形《ちゅうがた》のお揃衣《そろい》がうすら寒そうにみえた。宵宮《よみや》の十四日には夕方から霧のような細かい雨が花笠の上にしとしとと降っ
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