死んだ。長左衛門さんも死んだ。今生き残っているのは建具屋のおじいさん一人であった。
三
わたしの家では父が死んだのちに、おなじ露地のなかで南側の二階家にひき移って、わたしの家の水口がお玉さんの庭の板塀と丁度むかい合いになった。わたしの家の者が徳さんと顔を見あわせる機会が多くなった。それでも両方ながら別に挨拶もしなかった。その時はわたしが徳さんの清元を聴いてからもう四、五年も過ぎていた。
その年の秋に強い風雨《あらし》があって、わたしの家の壁に雨漏りの汚点《しみ》が出た。たいした仕事でもないから近所の人に頼もうということになって、早速徳さんを呼びにやると、徳さんはこころよく来てくれた。多年近所に住んでいながら、わたしの家で徳さんに仕事を頼むのはこれが初めてであった。わたしはこの時はじめて徳さんと正面にむき合って、親しく彼と会話を交換したのであった。
徳さんはもう四十を三つ四つ越えているらしかった。髪の毛の薄い、色の蒼黒い、眼の嶮しい、頤の尖った、見るから神経質らしい男で、手足は職人に不似合いなくらいに繊細《かぼそ》くみえた。紺の匂いの新しい印半※[#「纏」の「广」に代えて「厂」、250−10]をきて、彼は行儀よくかしこまっていた。わたしから繕《つくろ》いの注文を一々聞いて、徳さんは丁寧に、はきはきと答えた。
「あんな人がなぜ近所と折合いが悪いんだろう。」
徳さんの帰ったあとで、家内の者はみんな不思議がっていた。あくる日は朝早くから仕事に来て、徳さんは一日黙って働いていた。その働き振りのいかにも親切なのが嬉しかった。今どきの職人にはめずらしいと家内の評判はますます好かった。多寡が壁の繕いであったから、仕事は三日ばかりで済んでしまった。徳さんは勘定を受け取りにくる時に、庭の青柿の枝をたくさんに切って来てくれて、
「渋くってとても食べられません、花活けへでもお※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]しください。」と言った。なるほど粒は大きいが渋くって食えなかった。わたしは床の間の花瓶に※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]した。
「妹はこの頃どんな塩梅ですね。」と、そのとき私はふいと訊いてみた。
「お蔭さまでこの頃はだいぶ落ちついているようですが、あいつのこってすから何時あばれ出すか知れ
前へ
次へ
全15ページ中10ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング