に出逢ったというような話は、昔からしばしば伝えられているが、ここにも何かそんな秘密がひそんでいるのではあるまいか。
そう思えば、あるじの僧は見るところ柔和《にゅうわ》で賢《さか》しげであるが、その青ざめた顔になんとなく一種の暗い影をおびているようにも見られる。自分が一宿《いっしゅく》を頼んだときにも、彼は初めの親切にひきかえてすこぶる迷惑そうな顔をみせた。それにも何かの子細がありそうである。叔父は眠った振りをしながら、時どきに薄く眼をあいてうかがうと、僧はほとんど身動きもしないように正しく坐って、一心に読経を続けているらしかった。炉の火はだんだんに消えて、暗い家のなかにかすかに揺れているのは仏前の燈火《あかし》ばかりである。
時の鐘など聞えないので、今が何どきであるか判らないが、もう真夜中であろうかと思われる頃に、僧はにわかに立上がって、叔父の寝息を窺《うかが》うようにちょっと覗《のぞ》いて、やがて音のせぬように雨戸をそっと開けたらしい。叔父は表をうしろにして寝ていたので、その挙動を確かに見届けることは出来なかったが、彼は藁草履《わらぞうり》の音を忍ばせて、表へぬけ出して行くように思われた。風のない夜ではあるが、彼が雨戸をあけて又しめるあいだに、山気《さんき》というか、夜気というか、一種の寒い空気がたちまち水のように流れ込んで、叔父の掛け蒲団の上をひやりと撫《な》でて行ったかと思う間もなく、仏前の燈火は吹き消されたように暗くなってしまった。
掛け蒲団を押しのけて、叔父もそっと這《は》い起きた。手探りながらに雨戸をほそ目にあけて窺うと、表は山霧に包まれたような一面の深い闇である。僧はすすきをかき分けて行くらしく、そのからだに触れるような葉摺れの音が時どきにかさかさと聞えた。と思う時、さらに一種異様の声が叔父の耳にひびいた。何物かが笑うような声である。
何とはなしにぞっ[#「ぞっ」に傍点]として、叔父はなおも耳をすましていると、それはどうしても笑うような声である。しかも生きた人間の声ではない。さりとて猿などの声でもないらしい。何か乾いた物と堅い物とが打合っているように、あるいはかちかち[#「かちかち」に傍点]と響き、あるいはからから[#「からから」に傍点]とも響くらしいが、又あるときには何物かが笑っているようにも聞えるのである。その笑い声――もしそれが笑い声であるとすれば、決して愉快や満足の笑い声ではない。冷笑とか嘲笑とかいうたぐいの忌《いや》な笑い声である。いかにも冷たいような、うす気味の悪い笑い声である。その声はさのみ高くもないのであるが、深夜の山中、あたりが物凄いほど寂寞《せきばく》としているので、その声が耳に近づいてからから[#「からから」に傍点]と聞えるのである。それをじっと聞いているうちに、肉も血もおのずと凍るように感じられて、骨の髄までが寒くなって来たので、叔父は引っ返して蒲団の上に坐った。
僧が注意したのはこれであろう。僧はこの声を他人に聞かせたくなかったのであろうと、叔父は推量した。この声は一体なんであるか。僧はこの声に誘われて、表へ出て行ったらしく思われるが、この声と、かの僧とのあいだにどういう関係がつながっているのか、叔父には容易に想像がつかなかった。自分ばかりでなく、誰にもおそらく想像はつくまいと思われた。そんなことを考えている間にも、怪しい声はあるいは止み、あるいは聞えた。
「おれも武士だ。なにが怖い。」
いっそ思い切ってその正体を突き留めようと、叔父は蒲団の下に入れてある護身用の匕首《あいくち》をさぐり出して、身づくろいして立ちかけたが、又すこし躇躊《ちゅうちょ》した。前にもいう通り、この声と、かの僧との関係がはっきりしない以上、みだりに邪魔に出てよいか悪いか。自分が突然飛び出して行ったがために、僧が何かの迷惑を感じるようでも気の毒である。僧もそれを懸念《けねん》して、あらかじめ自分に注意したらしいのであるから、自分も騒がず、人をも驚かさず、何事も知らぬ顔をして過すのが、一夜の恩に報いるゆえんではあるまいか。こう思い直して叔父はまた坐った。
僧はどこへ行って何をしているのか、いつまでも戻らなかった。怪しい声も時どきに聞えた。どう考えても、何かの怪物が歯をむき出して嘲《あざけ》り笑っているような、気味の悪い声である。もしや空耳《そらみみ》ではないかと、叔父は自分の臆病を叱りながら幾たびか耳を引っ立てたが、聞けば聞くほど一種の鬼気《きき》が人を襲うように感じられて、しまいには聞くに堪えられないように恐ろしくなって来た。
「ええ、どうでも勝手にしろ。」
叔父は自棄《やけ》半分に度胸を据えて、ふたたび横になった。以前のように表をうしろにして、左の耳を木枕に当て、右の耳の上まで蒲団を引っかぶって、
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