ござります。」と、僧は低い溜息をついた。「妹はわたしの二十四の年に歿しました。その翌年に母が亡くなりました。又その翌年に父が死にました。」
「三年つづいて……。」と、叔父も思わず眉をよせた。
「はい、三年のうちに両親と妹がつづいて世を去ったのでござります。なにしろこんな辺鄙《へんぴ》なところですから、鎌倉への交通などは容易に出来るものではなく、父からは何の便りもありませんので、妹のことも母の事もわたしはちっとも知らずにおりました。それでも父の死んだ時には村の人々から知らせてくれましたので、おどろいで早々に帰ってみますと、母も妹も、もうとうに死んでいるということが初めて判りました。わたしはいよいよ驚きました。」
「ごもっともで……。お察し申します。」と、叔父も同情するようにうなずいた。「それから引きつづいてここにおいでになるのでございますか。」
「両親はなし、妹はなし、こんなあばら家一軒、捨てて行っても惜しいことはないのですが……。ある物に引留められて、どうしてもここを立去ることが出来なくなりました。唯今も申す通り、三年、五年、十年……。あるいは一生でも……。その役目を果たさぬうちは、ここを動くことが出来なくなったのでござります。」
 ある物に引留められて――その謎のような言葉の意味が叔父には判らなかった。あるいは両親や妹の墓を守るという事かとも思ったが、それならば当分といい、又は三年五年などという筈《はず》もあるまい。寂父はただ黙って聞いていると、僧もその以上の説明をつけ加えなかった。

     二

 叔父はその晩、そこに泊めてもらうことになった。初めにそれを言い出したときに、僧は迷惑そうな顔をして断わった。
「これから下大須までは一里余りで、そこまで行けば十五、六軒の人家もあります。旅の人のひとりや二人を泊めてくれるに不自由のない家もあります。お疲れでもあろうが、辛抱してそこまでお出でなされたがよろしゅうござります。」
 しかし叔父は疲れ切っていた。殊に平地でもあることか、この嶮しい山坂をこれから一里あまりも登り降りするのは全く難儀であるので、叔父はその事情を訴えて、どんな隅でもいいから今夜だけはここの家根の下においてくれと頼んだ。
「何分にも土地不案内の夜道でございますから、ひと足踏みはずしたら、深い谷底へ真っ逆さまに転《ころ》げ落ちるかも知れません。わたくしをお助け下さると思召《おぼしめ》して、どうぞ今夜だけは……。」と、叔父は繰返して言った。
 深い谷底――その一句をきいたときに、僧の顔色は又曇った。彼はうつむいて少し思案しているようであったが、やがてしずかに言い出した。
「それほどに言われるものを無慈悲にお断わり申すわけには参りますまい。勿論、夜の物も満足に整うてはおりませぬが、それさえ御承知ならばお泊め申しましょう。」
「ありがとうございます。」と、叔父はほっ[#「ほっ」に傍点]として頭を下げた。
「それからもう一つ御承知をねがっておきたいのは、たとい夜なかに何事があっても、かならずお気にかけられぬように……。しかし熊や狼のたぐいはめったに人家へ襲って来るようなことはありませぬから、それは決して御心配なく……。」
 叔父は承知して泊ることになった。寝るときに僧は雨戸をあけて表をうかがった。今夜は真っ暗で星ひとつ見えないと言った。こうした山奥にはありがちの風の音さえもきこえない夜で、ただ折りおりにきこえるのは、谷底に遠くむせぶ水の音と、名も知れない夜の鳥の怪しく啼き叫ぶ声が木霊《こだま》してひびくのみであった。更けるにつれて、霜をおびたような夜の寒さが身にしみて来た。
「おまえはお疲れであろう、早くお休みなさい。」
 叔父には寝道具を出してくれて、僧はふたたび仏壇の前に向き直った。彼は低い声で経を読んでいるらしかった。叔父はふだんでもよく眠る方である。殊に今夜はひどく疲れているのであるが、なんだか眼がさえて寝つかれなかった。あるじの僧に悪気《わるぎ》のないのは判っている上に、熊や狼の獣《けもの》もめったに襲って来ないという。それでも叔父の胸の奥には言い知れない不安が忍んでいるのであった。
 僧はある物に引留められて、ここに一生を送るかも知れないと言った。その「ある物」の意味を彼は考えさせられた。僧は又たとい何事があっても気にかけるなと言った。その「何事」の意味も彼は又かんがえた。所詮《しょせん》はこの二つが彼に一種の不安をあたえ、また一種の好奇心をそそって、今夜を安々と眠らせないのである。
 前者は僧の一身上に関することで、自分に係合いはないのであるが、後者は自分にも何かの係合いがあるらしい。それなればこそ僧も一応は念を押して、自分に注意をあたえてくれたのであろう。山奥や野中の一軒家などに宿りを求めて、種々の怪異
前へ 次へ
全9ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング