なるべくその声を聞かないように寝ころんでいると、さすがに一日の疲れが出て、いつかうとうとと眠ったかと思うと、このごろの長い夜ももう明けかかって、戸の隙間から暁のひかりが薄白く洩れていた。
僧は起きていた。あるいは朝まで眠らなかったのかも知れない。いつの間にか水を汲んで来て、湯を沸かす支度などをしていた。炉にも赤い火が燃えていた。
「お早うございます。つい寝すごしまして……。」と、叔父は挨拶した。
「いや、まだ早うございます。ゆるゆるとおやすみなさい。」と、僧は笑いながら会釈《えしゃく》した。気のせいか、その顔色はゆうべよりも更に蒼ざめて、やさしい目の底に鋭いような光りがみえた。
家のうしろに筧《かけい》があると教えられて、叔父は顔を洗いに出た。ゆうべの声は表の方角にきこえたらしいので、すすきのあいだから伸びあがると、狭い山道のむこうは深い谷で、その谷を隔てた山々はまだ消えやらない靄《もや》のうちに隠されていた。教えられた通りに裏手へまわって、顔を洗って戻って来ると、僧は寝道具のたぐいを片付けて、炉のそばに客の座を設けて置いてくれた。叔父はけさも橡の実を食って湯を飲んだ。
「いろいろ御厄介になりました。」
「この通りの始末で、なんにもお構い申しませぬ。ゆうべはよく眠られましたか。」と、僧は炉の火を焚き添えながら訊いた。
「疲れ切っておりましたので、枕に頭をつけたが最後、朝までなんにも知らずに寝入ってしまいました。」と、叔父は何げなく笑いながら答えた。
「それはよろしゅうござりました。」と、僧も何げなく笑っていた。
そのあいだにも叔父は絶えず注意していたが、怪しい笑い声などはどこからも聞えなかった。
三
一宿《いっしゅく》の礼をあつく述べて叔父は草鞋《わらじ》の緒をむすぶと、僧はすすきを掻きわけて、道のあるところまで送って来た。そのころには夜もすっかり明け放れていたので、叔父は再び注意してあたりを見まわすと、道の一方につづいている谷は、きのうの夕方に見たよりも更に大きく深かった。岸は文字通りの断崖絶壁で、とても降《くだ》るべき足がかりもないが、その絶壁の中途からはいろいろの大木が斜めに突き出して、底の見えないように枝や葉を繁らせていた。
別れて十間ばかり行き過ぎて振り返ると、僧は朝霜の乾かない土の上にひざまずいて、谷にむかって合掌しているらしかった。怪しい笑い声は谷の方から聞えたのであろうと叔父は想像した。
下大須まで一里あまりということであったが、実際は一里半を越えているように思われた。登り降りの難所を幾たびか過ぎて、ようようにそこまで行き着くと、果たして十五、六軒の人家が一部落をなしていて、中には相当の大家内《おおやない》らしい住居も見えた。時刻がまだ早いとは思ったが、上大須まで一気にたどるわけにはいかないので、叔父はそのうちの大きそうな家に立寄って休ませてもらうと、ここらの純朴な人たちは見識らない旅人をいたわって、隔意《かくい》なしにもてなしてくれた。近所の人々もめずらしそうに寄り集まって来た。
「ゆうべはどこにお泊りなされた。松田からでは少し早いようだが……。」と、そのうちの老人が訊いた。
「ここから一里半ほども手前に一軒家がありまして、そこに泊めてもらいました。」
「坊さまひとりで住んでいる家《うち》か。」
人々は顔をみあわせた。
「あの御出家はどういう人ですね。以前は鎌倉のお寺で修業したというお話でしたが……。」
と、叔父も人々の顔を見まわしながら訊いた。
「鎌倉の大きいお寺で十六年も修業して、相当の一ヵ寺の住職にもなられるほどの人が、こんな山奥に引っ込んでしまって……。考えれば、お気の毒なことだ。」と、老人は心から同情するように溜息をついた。「これも何かの因縁というのだろうな。」
ゆうべの疑いが叔父の胸にわだかまっていたので、彼は探るように言い出した。
「御出家はまことにいい人で、いろいろ御親切に世話をしてくださいましたが、ただ困ったことには、気味の悪い声が夜通しきこえるので……。」
「ああ、おまえもそれを聞きなすったか。」と、老人はまた嘆息した。
「あの声は、……。あの忌《いや》な声はいったいなんですね。」
「まったく忌《いや》な声だ。あの声のために親子三人が命を取られたのだからな。」
「では、両親も妹もあの声のために死んだのですか。」と、叔父は思わず目をかがやかした。
「妹のことも知っていなさるのか。では、坊さまは何もかも話したかな。」
「いいえ、ほかにはなんにも話しませんでしたが……。してみると、あの声には何か深い訳があるのですね。」
「まあ、まあ、そうだ。」
「そこで、その訳というのは……。」と、叔父は畳みかけて訊いた。
「さあ。そんなことをむやみに言っていいか悪いか。どうした
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