云ふか。おれを誰《だれ》だと考へる。北守将軍ソンバーユーだ。九万人もの兵隊を、町の広場に待たせてある。おれが一人を待つことは七万二千の兵隊が、向ふの方で待つことだ。すぐ見ないならけちらすぞ。」将軍はもう鞭《むち》をあげ馬は一いきはねあがり、病人たちは泣きだした。ところがリンパー先生は、やつぱりびくともしてゐない、てんでこつちを見もしない。その先生の右手から、黄の綾《あや》を着た娘が立つて、花瓶《くわびん》にさした何かの花を、一枝とつて水につけ、やさしく馬につきつけた。馬はぱくつとそれを噛《か》み、大きな息を一つして、ぺたんと四《よつ》つ脚を折り、今度はごうごういびきをかいて、首を落してねむつてしまふ。ソン将軍はまごついた。
「あ、馬のやつ、又参つたな。困つた。困つた。困つた。」と云つて、急いで鎧《よろひ》のかくしから、塩の袋をとりだして、馬に喰べさせようとする。
「おい、起きんかい。あんまり情けないやつだ。あんなにひどく難儀して、やつと都に帰つて来ると、すぐ気がゆるんで死ぬなんて、ぜんたいどういふ考なのか。こら、起きんかい。起きんかい。しつ、ふう、どう、おい、この塩を、ほんの一口たべんかい。」それでも馬は、やつぱりぐうぐうねむつてゐる。ソン将軍はたうとう泣いた。
「おい、きみ、わしはとにかくに、馬だけどうかみてくれたまへ。こいつは北の国境で、三十年もはたらいたのだ。」
むすめはだまつて笑つてゐたが、このときリンパー先生が、いきなりこつちを振り向いて、まるで将軍の胸底から、馬の頭も見徹《みとほ》すやうな、するどい眼をしてしづかに云つた。
「馬はまもなく治ります。あなたの病気をしらべるために、馬を座らせただけです。あなたはそれで向ふの方で、何か病気をしましたか。」
「いゝや、病気はしなかつた。病気は別にしなかつたが、狐《きつね》のために欺《だま》されて、どうもときどき困つたぢや。」
「それは、どういふ風ですか。」
「向ふの狐はいかんのぢや。十万近い軍勢を、たゞ一ぺんに欺すんぢや。夜に沢山火をともしたり、昼間いきなり破漠《さばく》の上に、大きな海をこしらへて、城や何かも出したりする。全くたちが悪いんぢや。」
「それを狐《きつね》がしますのですか。」
「狐とそれから、砂鶻《サコツ》ぢやね、砂鶻というて鳥なんぢや。こいつは人の居《を》らないときは、高い処を飛んでゐて、誰《だれ》かを見ると試しに来る。馬のしつぽを抜いたりね。目をねらつたりするもんで、こいつがでたらもう馬は、がたがたふるへてようあるかんね。」
「そんなら一ペん欺《だま》されると、何日ぐらゐでよくなりますか。」
「まあ四日ぢやね。五日のときもあるやうぢや。」
「それであなたは今までに、何べんぐらゐ欺されました?」
「ごく少くて十ぺんぢやらう。」
「それではお尋ねいたします。百と百とを加へると答はいくらになりますか。」
「百八十ぢや。」
「それでは二百と二百では。」
「さやう、三百六十だらう。」
「そんならも一つ伺《うかが》ひますが、十の二倍は何ほどですか。」
「それはもちろん十八ぢや。」
「なるほど、すつかりわかりました。あなたは今でもまだ少し、砂漠《さばく》のためにつかれてゐます。つまり十パーセントです。それではなほしてあげませう。」
パー先生は両手をふつて、弟子にしたくを云ひ付けた。弟子は大きな銅鉢《どうばち》に、何かの薬をいつぱい盛つて、布巾《ふきん》を添へて持つて来た。ソン将軍は両手を出して鉢をきちんと受けとつた。パー先生は片袖《かたそで》まくり、布巾に薬をいつぱいひたし、かぶとの上からざぶざぶかけて、両手でそれをゆすぶると、兜《かぶと》はすぐにすぱりととれた。弟子がも一人、もひとつ別の銅鉢へ、別の薬をもつてきた。そこでリンパー先生は、別の薬でじやぶじやぶ洗ふ。雫《しづく》はまるでまつ黒だ。ソン将軍は心配さうに、うつむいたまゝ訊《き》いてゐる。
「どうかね、馬は大丈夫かね。」
「もうぢきです。」とパー先生は、つゞけてじやぶじやぶ洗つてゐる。雫がだんだん茶いろになつて、それからうすい黄いろになつた。それからたうとうもう色もなく、ソン将軍の白髪は、熊《くま》より白く輝いた。そこでリンパー先生は、布巾を捨てて両手を洗ひ、弟子は頭と顔を拭《ふ》く。将軍はぶるつと身ぶるひして、馬にきちんと起きあがる。
「どうです、せいせいしたでせう。ところで百と百とをたすと、答はいくらになりますか。」
「もちろんそれは二百だらう。」
「そんなら二百と二百とたせば。」
「さやう、四百にちがひない。」
「十の二倍はどれだけですか。」
「それはもちろん二十ぢやな。」さつきのことは忘れた風で、ソン将軍はけろりと云ふ。
「すつかりおなほりなりました。つまり頭の目がふさがつて、一割いけなかつたのですな。」
「いやいや、わしは勘定などの、十や二十はどうでもいいんぢや。それは算師がやるでなう。わしは早速この馬と、わしをはなしてもらひたいんぢや。」
「なるほどそれはあなたの足を、あなたの服と引きはなすのは、すぐ私に出来るです。いやもう離れてゐる筈《はず》です。けれども、ずぼんが鞍《くら》につき、鞍がまた馬についたのを、はなすといふのは別ですな。それはとなりで、私の弟がやつてゐますから、そつちへおいでいただきます。それにいつたいこの馬もひどい病気にかかつてゐます。」
「そんならわしの顔から生えた、このもじやもじやはどうぢやらう。」
「そちらもやつぱり向ふです。とにかくひとつとなりの方へ、弟子をお供に出しませう。」
「それではそつちへ行くとしよう。ではさやうなら。」
さつきの白いきものをつけた、むすめが馬の右耳に、息を一つ吹き込んだ。馬はがばつとはねあがり、ソン将軍は俄《には》かに背《せい》が高くなる、将軍は馬のたづなをとり、弟子とならんで室《へや》を出る。それから庭をよこぎつて厚い土塀《どべい》の前に来た。小さな潜《くぐ》りがあいてゐる。
「いま裏門をあけさせませう。」助手は潜りを入つて行く。
「いゝや、それには及ばない。わたしの馬はこれぐらゐ、まるで何とも思つてやしない。」
将軍は馬にむちをやる。
ぎつ、ばつ、ふう。馬は土塀をはね越えて、となりのリンプー先生の、けしのはたけをめちやくちやに、踏みつけながら立つてゐた。
四、馬医リンブー先生
ソン将軍が、お医者の弟子と、けしの畑をふみつけて向ふの方へ歩いて行くと、もうあつちからもこつちからも、ぶるるるふうといふやうな、馬の仲間の声がする。そして二人が正面の、巨《おほ》きな棟《むね》にはひつて行くと、もう四方から馬どもが、二十|疋《ぴき》もかけて来て、蹄《ひづめ》をことこと鳴らしたり、頭をぶらぶらしたりして、将軍の馬に挨拶《あいさつ》する。
向ふでリンプー先生は、首のまがつた茶いろの馬に、白い薬を塗つてゐる。さつきの弟子が進んで行つて、ちよつと何かをさゝやくと、馬医のリンプー先生は、わらつてこつちをふりむいた。巨きな鉄の胸甲《むなあて》を、がつしりはめてゐることは、ちやうどやつぱり鎧《よろひ》のやうだ。馬にけられぬためらしい。将軍はすぐその前へ、じぶんの馬を乗りつけた。
「あなたがリンプー先生か。わしは将軍ソンバーユーぢや。何分ひとつたのみたい。」
「いや、その由を伺《うかが》ひました。あなたのお馬はたしか三十九ぐらゐですな。」
「四捨五入して、さうぢや、やつぱり三十九ぢやな。」
「ははあ、たゞいま手術いたします。あなたは馬の上に居て、すこし煙いかしれません。それをご承知くださいますか。」
「煙い? なんのどうして煙《けむ》ぐらゐ、砂漠《さばく》で風の吹くときは、一分間に四十五以上、馬を跳躍させるんぢや。それを三つも、やすんだら、もう頭まで埋まるんぢや。」
「ははあ、それではやりませう。おい、フーシユ。」プー先生は弟子を呼ぶ。弟子はおじぎを一つして、小さな壺《つぼ》をもつて来た。プー先生は蓋《ふた》をとり、何か茶いろな薬を出して、馬の眼《まなこ》に塗りつけた。それから「フーシユ」とまた呼んだ。弟子はおじぎを一つして、となりの室《へや》へ入つて行つて、しばらくごとごとしてゐたが、まもなく赤い小さな餅《もち》を、皿《さら》にのつけて帰つて来た。先生はそれをつまみあげ、しばらく指ではさんだり、匂《にほひ》をかいだりしてゐたが、何か決心したらしく、馬にぱくりと喰べさせた。ソン将軍は、その白馬《しろうま》の上に居て、待ちくたびれてあくびをした。すると俄《には》かに白馬《しろうま》は、がたがたがたがたふるへ出しそれからからだ一面に、あせとけむりを噴き出した。プー先生はこはさうに、遠くへ行つてながめてゐる。がたがたがたがた鳴りながら、馬はけむりをつゞけて噴いた。そのまた煙が無暗《むやみ》に辛《から》い。ソン将軍も、はじめは我慢してゐたが、たうとう両手を眼にあてて、ごほんごほんとせきをした。そのうちだんだんけむりは消えてこんどは、汗が滝よりひどくながれだす。プー先生は近くへよつて、両手をちよつと鞍《くら》にあて、二つつばかりゆすぶつた。
たちまち鞍はすぱりとはなれ、はずみを食つた将軍は、床にすとんと落された。ところがさすが将軍だ。いつかきちんと立つてゐる。おまけに鞍と将軍も、もうすつかりとはなれてゐて、将軍はまがつた両足を、両手でぱしやぱしや叩《たた》いたし、馬は俄かに荷がなくなつて、さも見当がつかないらしく、せなかをゆらゆらゆすぶつた。するとバーユー将軍はこんどは馬のはうきのやうなしつぽを持つて、いきなりぐつと引つ張つた。すると何やらまつ白な、尾の形した塊が、ごとりと床にころがり落ちた。馬はいかにも軽さうに、いまは全く毛だけになつたしつぼを、ふさふさ振つてゐる。弟子が三人集つて、馬のからだをすつかりふいた。
「もういゝだらう。歩いてごらん。」
馬はしづかに歩きだす。あんなにぎちぎち軋《きし》んだ膝《ひざ》がいまではすつかり鳴らなくなつた。プー先生は手をあげて、馬をこつちへ呼び戻し、おじぎを一つ将軍にした。
「いや謝しますぢや。それではこれで。」将軍は、急いで馬に鞍を置き、ひらりとそれにまたがれば、そこらあたりの病気の馬は、ひんひん別れの挨拶《あいさつ》をする。ソン将軍は室を出て塀《へい》をひらりと飛び越えて、となりのリンポー先生の、菊のはたけに飛び込んだ。
五、リンポー先生
さてもリンポー先生の、草木を治すその室《へや》は、林のやうなものだつた。あらゆる種類の木や花が、そこらいつぱいならべてあつて、どれにもみんな金だの銀の、巨《おほ》きな札がついてゐる。そこを、バーユー将軍は、馬から下りて、ゆつくりと、ポー先生の前へ行く。さつきの弟子がさきまはりして、すつかり談《はな》してゐたらしく、ポー先生は薬の函《はこ》と大きな赤い団扇《うちは》をもつて、ごくうやうやしく待つてゐた。ソン将軍は手をあげて、
「これぢや。」と顔を指さした。ポー先生は黄いろな粉を、薬函から取り出して、ソン将軍の顔から肩へ、もういつぱいにふりかけて、それから例のうちはをもつて、ばたばたばたばた扇ぎ出す。するとたちまち、将軍の、顔ぢゆうの毛はまつ赤に変り、みんなふはふは飛び出して、見てゐるうちに将軍は、すつかり顔がつるつるなつた。じつにこのとき将軍は、三十年ぶりにつこりした。
「それではこれで行きますぢや。からだもかるくなつたでなう。」もう将軍はうれしくて、はやてのやうに室を出て、おもての馬に飛び乗れば、馬はたちまち病院の、巨きな門を外に出た。あとから弟子が六人で、兵隊たちの顔から生えた灰いろの毛をとるために、薬の袋とうちはをもつて、ソン将軍を追ひかけた。
六、北守将軍|仙人《せんにん》となる
さてソンバーユー将軍は、ポー先生の玄関を、光のやうに飛び出して、となりのリンプー病院を、はやてのごとく通り過ぎ、次のリンパー病院を、斜めに見ながらもう一散に、さつきの坂をかけ下りる。馬は五倍も速いので、もう向ふには兵隊たちの、やすんでゐるの
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