やしない。黒狐だから。おい若いお方。君、君、おいなぜ返事せんか。無礼なやつだ君は我輩を知らんか。わしはねイーハトヴのタイチだよ。イーハトヴのタイチを知らんか。こんな汽車へ乗るんぢやなかつたな。わしの持船で出かけたらだまつて殿さまで通るんだ。ひとりで出掛けて黒狐を九百疋とつて見せるなんて下らないかけをしたもんさ』
 こんな馬鹿《ばか》げた大きな子供の酔どれをもう誰《たれ》も相手にしませんでした。みんな眠るか睡《ねむ》る支度でした。きちんと起きてゐるのはさつきの窓のそばの一人の青年と客車の隅《すみ》でしきりに鉛筆をなめながらきよときよと聴き耳をたてて何か書きつけてゐるあの痩《やせ》た赤髯《あかひげ》の男だけでした。
『紅茶はいかゞですか。紅茶はいかゞですか』
 白服のボーイが大きな銀の盆に紅茶のコツプを十ばかり載せてしづかに大股《おほまた》にやつて来ました。
『おい、紅茶をおくれ』イーハトヴのタイチが手をのばしました。ボーイはからだをかゞめてすばやく一つを渡し銀貨を一枚受け取りました。
 そのとき電燈がすうつと赤く暗くなりました。
 窓は月のあかりでまるで螺鈿《らでん》のやうに青びかりみん
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