た紳士はもうひとりの外套を沢山もつた紳士と喧嘩《けんくわ》をしましたがそのあとの方の人はたうとう負て寝たふりをしてしまひました。
 紳士はそこでつゞけさまにウヰスキーの小さなコツプを十二ばかりやりましたらすつかり酔ひがまはつてもう目を細くして唇《くちびる》をなめながらそこら中の人に見あたり次第くだを巻きはじめました。
『ね、おい、氷河鼠の頸のところの毛皮だけだぜ。えゝ、氷河鼠の上等さ。君、君、百十六疋の分なんだ。君、君|斯《か》う見渡すといふと外套二枚ぐらゐのお方もずゐぶんあるやうだが外套二枚ぢやだめだねえ、君は三枚だからいいね、けれども、君、君、君のその外套《ぐわいたう》は全体それは毛ぢやないよ。君はさつきモロツコ狐《ぎつね》だとか云《い》つたねえ。どうしてどうしてちやんとわかるよ。それはほんとの毛ぢやないよ。ほんとの毛皮ぢやないんだよ』
『失敬なことを云ふな。失敬な』
『いゝや、ほんとのことを云ふがね、たしかにそれはにせものだ。絹糸で拵《こしら》へたんだ』
『失敬なやつだ。君はそれでも紳士かい』
『いゝよ。僕は紳士でもせり売屋でも何でもいゝ。君のその毛皮はにせものだ』
『野蕃《やばん》なやつだ。実に野蕃だ』
『いゝよ。おこるなよ向ふへ行つて寒かつたら僕のとこへおいで』
『頼まない』
 よその紳士はすつかりぶり/\してそれでもきまり悪さうにやはりうつ/\寝たふりをしました。
 氷河鼠《ひようがねずみ》の上着を有《も》つた大将は唇《くちびる》をなめながらまはりを見まはした。
『君、おい君、その窓のところのお若いの。失敬だが君は船乗りかね』
 若者はやつぱり外を見てゐました。月の下にはまつ白な蛋白石《たんぱくせき》のやうな雲の塊が走つて来るのです。
『おい、君、何と云つても向ふは寒い、その帆布一枚ぢやとてもやり切れたもんぢやない。けれども君はなか/\豪儀なとこがある。よろしい貸てやらう。僕のを一枚貸てやらう。さうしよう』
 けれども若者はそんな言《げん》が耳にも入らないといふやうでした。つめたく唇を結んでまるでオリオン座のとこの鋼いろの空の向ふを見透かすやうな眼をして外を見てゐました。
『ふん。バースレーかね。黒狐だよ。なかなか寒いからね、おい、君若いお方、失敬だが外套を一枚お貸申すとしようぢやないか。黄いろの帆布一枚ぢやどうしてどうして零下の四十度を防ぐもなにもでき
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