やしない。黒狐だから。おい若いお方。君、君、おいなぜ返事せんか。無礼なやつだ君は我輩を知らんか。わしはねイーハトヴのタイチだよ。イーハトヴのタイチを知らんか。こんな汽車へ乗るんぢやなかつたな。わしの持船で出かけたらだまつて殿さまで通るんだ。ひとりで出掛けて黒狐を九百疋とつて見せるなんて下らないかけをしたもんさ』
こんな馬鹿《ばか》げた大きな子供の酔どれをもう誰《たれ》も相手にしませんでした。みんな眠るか睡《ねむ》る支度でした。きちんと起きてゐるのはさつきの窓のそばの一人の青年と客車の隅《すみ》でしきりに鉛筆をなめながらきよときよと聴き耳をたてて何か書きつけてゐるあの痩《やせ》た赤髯《あかひげ》の男だけでした。
『紅茶はいかゞですか。紅茶はいかゞですか』
白服のボーイが大きな銀の盆に紅茶のコツプを十ばかり載せてしづかに大股《おほまた》にやつて来ました。
『おい、紅茶をおくれ』イーハトヴのタイチが手をのばしました。ボーイはからだをかゞめてすばやく一つを渡し銀貨を一枚受け取りました。
そのとき電燈がすうつと赤く暗くなりました。
窓は月のあかりでまるで螺鈿《らでん》のやうに青びかりみんなの顔も俄《にはか》に淋《さび》しく見えました。
『まつくらでござんすなおばけが出さう』ボーイは少し屈《かが》んであの若い船乗りののぞいてゐる窓からちよつと外を見ながら云ひました。
『おや、変な火が見えるぞ。誰《たれ》かかがりを焚《た》いてるな。をかしい』
この時電燈がまたすつとつきボーイは又
『紅茶はいかがですか』と云ひながら大股《おほまた》にそして恭しく向ふへ行きました。
これが多分風の飛ばしてよこした切れ切れの報告の第五番目にあたるのだらうと思ひます。
×
夜がすつかり明けて東側の窓がまばゆくまつ白に光り西側の窓が鈍い鉛色になつたとき汽車が俄にとまりました。みんな顔を見合せました。
『どうしたんだらう。まだベーリングに着く筈《はず》がないし故障ができたんだらうか。』
そのとき俄に外ががや/\してそれからいきなり扉《とびら》ががたつと開き朝日はビールのやうにながれ込みました。赤ひげがまるで違つた物凄《ものすご》い顔をしてピカ/\するピストルをつきつけてはひつて来ました。
そのあとから二十人ばかりのすさまじい顔つきをした人がどうもそれは人といふよりは白熊《
前へ
次へ
全8ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮沢 賢治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング