ました。すると木樵はだんだんぐるっと円くまわって歩いていましたがいよいよひどく周章《あわ》てだしてまるではあはあはあはあしながら何べんも同じ所をまわり出しました。何でも早く谷地から遁げて出ようとするらしいのでしたがあせってもあせっても同じ処《ところ》を廻《まわ》っているばかりなのです。とうとう木樵はおろおろ泣き出しました。そして両手をあげて走り出したのです。土神はいかにも嬉《うれ》しそうににやにやにやにや笑って寝そべったままそれを見ていましたが間もなく木樵がすっかり逆上《のぼ》せて疲《つか》れてばたっと水の中に倒《たお》れてしまいますと、ゆっくりと立ちあがりました。そしてぐちゃぐちゃ大股にそっちへ歩いて行って倒れている木樵のからだを向うの草はらの方へぽんと投げ出しました。木樵は草の中にどしりと落ちてううんと云いながら少し動いたようでしたがまだ気がつきませんでした。
土神は大声に笑いました。その声はあやしい波になって空の方へ行きました。
空へ行った声はまもなくそっちからはねかえってガサリと樺の木の処にも落ちて行きました。樺の木ははっと顔いろを変えて日光に青くすきとおりせわしくせわしくふるえました。
土神はたまらなそうに両手で髪を掻きむしりながらひとりで考えました。おれのこんなに面白《おもしろ》くないというのは第一は狐《きつね》のためだ。狐のためよりは樺の木のためだ。狐と樺の木とのためだ。けれども樺の木の方はおれは怒《おこ》ってはいないのだ。樺の木を怒らないためにおれはこんなにつらいのだ。樺の木さえどうでもよければ狐などはなおさらどうでもいいのだ。おれはいやしいけれどもとにかく神の分際だ。それに狐のことなどを気にかけなければならないというのは情ない。それでも気にかかるから仕方ない。樺の木のことなどは忘れてしまえ。ところがどうしても忘れられない。今朝《けさ》は青ざめて顫《ふる》えたぞ。あの立派だったこと、どうしても忘られない。おれはむしゃくしゃまぎれにあんなあわれな人間などをいじめたのだ。けれども仕方ない。誰《たれ》だってむしゃくしゃしたときは何をするかわからないのだ。
土神はひとりで切ながってばたばたしました。空を又|一疋《いっぴき》の鷹《たか》が翔《か》けて行きましたが土神はこんどは何とも云わずだまってそれを見ました。
ずうっとずうっと遠くで騎兵《きへい》の演習らしいパチパチパチパチ塩のはぜるような鉄砲《てっぽう》の音が聞えました。そらから青びかりがどくどくと野原に流れて来ました。それを呑《の》んだためかさっきの草の中に投げ出された木樵はやっと気がついておずおずと起きあがりしきりにあたりを見廻しました。
それから俄かに立って一目散に遁げ出しました。三つ森山の方へまるで一目散に遁げました。
土神はそれを見て又大きな声で笑いました。その声は又青ぞらの方まで行き途中《とちゅう》から、バサリと樺の木の方へ落ちました。
樺の木は又はっと葉の色をかえ見えない位こまかくふるいました。
土神は自分のほこらのまわりをうろうろうろうろ何べんも歩きまわってからやっと気がしずまったと見えてすっと形を消し融《と》けるようにほこらの中へ入って行きました。
(四)[#「(四)」は縦中横]
八月のある霧《きり》のふかい晩でした。土神は何とも云えずさびしくてそれにむしゃくしゃして仕方ないのでふらっと自分の祠《ほこら》を出ました。足はいつの間にかあの樺の木の方へ向っていたのです。本当に土神は樺の木のことを考えるとなぜか胸がどきっとするのでした。そして大へんに切なかったのです。このごろは大へんに心持が変ってよくなっていたのです。ですからなるべく狐のことなど樺の木のことなど考えたくないと思ったのでしたがどうしてもそれがおもえて仕方ありませんでした。おれはいやしくも神じゃないか、一本の樺の木がおれに何のあたいがあると毎日毎日土神は繰《く》り返して自分で自分に教えました。それでもどうしてもかなしくて仕方なかったのです。殊《こと》にちょっとでもあの狐のことを思い出したらまるでからだが灼《や》けるくらい辛《つら》かったのです。
土神はいろいろ深く考え込《こ》みながらだんだん樺の木の近くに参りました。そのうちとうとうはっきり自分が樺の木のとこへ行こうとしているのだということに気が付きました。すると俄《にわ》かに心持がおどるようになりました。ずいぶんしばらく行かなかったのだからことによったら樺の木は自分を待っているのかも知れない、どうもそうらしい、そうだとすれば大へんに気の毒だというような考《かんがえ》が強く土神に起って来ました。土神は草をどしどし踏み胸を踊《おど》らせながら大股《おおまた》にあるいて行きました。ところがその強い足なみもいつかよろよろしてしまい土神はまるで頭から青い色のかなしみを浴びてつっ立たなければなりませんでした。それは狐が来ていたのです。もうすっかり夜でしたが、ぼんやり月のあかりに澱《よど》んだ霧の向うから狐の声が聞えて来るのでした。
「ええ、もちろんそうなんです。器械的に対称《シインメトリー》の法則にばかり叶《かな》っているからってそれで美しいというわけにはいかないんです。それは死んだ美です。」
「全くそうですわ。」しずかな樺の木の声がしました。
「ほんとうの美はそんな固定した化石した模型のようなもんじゃないんです。対称の法則に叶うって云ったって実は対称の精神を有《も》っているというぐらいのことが望ましいのです。」
「ほんとうにそうだと思いますわ。」樺の木のやさしい声が又しました。土神は今度はまるでべらべらした桃《もも》いろの火でからだ中燃されているようにおもいました。息がせかせかしてほんとうにたまらなくなりました。なにがそんなにおまえを切なくするのか、高《たか》が樺の木と狐との野原の中でのみじかい会話ではないか、そんなものに心を乱されてそれでもお前は神と云えるか、土神は自分で自分を責めました。狐《きつね》が又云いました。
「ですから、どの美学の本にもこれくらいのことは論じてあるんです。」
「美学の方の本|沢山《たくさん》おもちですの。」樺の木はたずねました。
「ええ、よけいもありませんがまあ日本語と英語と独乙《ドイツ》語のなら大抵《たいてい》ありますね。伊太利《イタリー》のは新らしいんですがまだ来ないんです。」
「あなたのお書斎《しょさい》、まあどんなに立派でしょうね。」
「いいえ、まるでちらばってますよ、それに研究室兼用ですからね、あっちの隅《すみ》には顕微鏡《けんびきょう》こっちにはロンドンタイムス、大理石のシィザアがころがったりまるっきりごったごたです。」
「まあ、立派だわねえ、ほんとうに立派だわ。」
ふんと狐の謙遜《けんそん》のような自慢《じまん》のような息の音がしてしばらくしいんとなりました。
土神はもう居ても立っても居られませんでした。狐の言っているのを聞くと全く狐の方が自分よりはえらいのでした。いやしくも神ではないかと今まで自分で自分に教えていたのが今度はできなくなったのです。ああつらいつらい、もう飛び出して行って狐を一裂《ひとさ》きに裂いてやろうか、けれどもそんなことは夢《ゆめ》にもおれの考えるべきことじゃない、けれどもそのおれというものは何だ結局狐にも劣《おと》ったもんじゃないか、一体おれはどうすればいいのだ、土神は胸をかきむしるようにしてもだえました。
「いつかの望遠鏡まだ来ないんですの。」樺の木がまた言いました。
「ええ、いつかの望遠鏡ですか。まだ来ないんです。なかなか来ないです。欧州《おうしゅう》航路は大分混乱してますからね。来たらすぐ持って来てお目にかけますよ。土星の環《わ》なんかそれぁ美しいんですからね。」
土神は俄に両手で耳を押《おさ》えて一目散に北の方へ走りました。だまっていたら自分が何をするかわからないのが恐《おそ》ろしくなったのです。
まるで一目散に走って行きました。息がつづかなくなってばったり倒《たお》れたところは三つ森山の麓《ふもと》でした。
土神は頭の毛をかきむしりながら草をころげまわりました。それから大声で泣きました。その声は時でもない雷《かみなり》のように空へ行って野原中へ聞えたのです。土神は泣いて泣いて疲《つか》れてあけ方ぼんやり自分の祠に戻《もど》りました。
(五)[#「(五)」は縦中横]
そのうちとうとう秋になりました。樺《かば》の木はまだまっ青でしたがその辺のいのころぐさはもうすっかり黄金《きん》いろの穂《ほ》を出して風に光りところどころすずらんの実も赤く熟しました。
あるすきとおるように黄金《きん》いろの秋の日土神は大へん上機嫌《じょうきげん》でした。今年の夏からのいろいろなつらい思いが何だかぼうっとみんな立派なもやのようなものに変って頭の上に環になってかかったように思いました。そしてもうあの不思議に意地の悪い性質もどこかへ行ってしまって樺の木なども狐《きつね》と話したいなら話すがいい、両方ともうれしくてはなすのならほんとうにいいことなんだ、今日はそのことを樺の木に云ってやろうと思いながら土神は心も軽く樺の木の方へ歩いて行きました。
樺の木は遠くからそれを見ていました。
そしてやっぱり心配そうにぶるぶるふるえて待ちました。
土神は進んで行って気軽に挨拶《あいさつ》しました。
「樺の木さん。お早う。実にいい天気だな。」
「お早うございます。いいお天気でございます。」
「天道《てんとう》というものはありがたいもんだ。春は赤く夏は白く秋は黄いろく、秋が黄いろになると葡萄《ぶどう》は紫《むらさき》になる。実にありがたいもんだ。」
「全くでございます。」
「わしはな、今日は大へんに気ぶんがいいんだ。今年の夏から実にいろいろつらい目にあったのだがやっと今朝《けさ》からにわかに心持ちが軽くなった。」
樺の木は返事しようとしましたがなぜかそれが非常に重苦しいことのように思われて返事しかねました。
「わしはいまなら誰《たれ》のためにでも命をやる。みみずが死ななけぁならんならそれにもわしはかわってやっていいのだ。」土神は遠くの青いそらを見て云いました。その眼も黒く立派でした。
樺の木は又何とか返事しようとしましたがやっぱり何か大へん重苦しくてわずか吐息《といき》をつくばかりでした。
そのときです。狐がやって来たのです。
狐は土神の居るのを見るとはっと顔いろを変えました。けれども戻るわけにも行かず少しふるえながら樺の木の前に進んで来ました。
「樺の木さん、お早う、そちらに居られるのは土神ですね。」狐は赤革《あかがわ》の靴《くつ》をはき茶いろのレーンコートを着てまだ夏帽子《なつぼうし》をかぶりながら斯《こ》う云いました。
「わしは土神だ。いい天気だ。な。」土神はほんとうに明るい心持で斯う言いました。狐は嫉《ねた》ましさに顔を青くしながら樺の木に言いました。
「お客さまのお出《い》での所にあがって失礼いたしました。これはこの間お約束《やくそく》した本です。それから望遠鏡はいつかはれた晩にお目にかけます。さよなら。」
「まあ、ありがとうございます。」と樺の木が言っているうちに狐はもう土神に挨拶もしないでさっさと戻りはじめました。樺の木はさっと青くなってまた小さくぷりぷり顫《ふる》いました。
土神はしばらくの間ただぼんやりと狐を見送って立っていましたがふと狐の赤革の靴のキラッと草に光るのにびっくりして我に返ったと思いましたら俄《にわ》かに頭がぐらっとしました。狐がいかにも意地をはったように肩《かた》をいからせてぐんぐん向うへ歩いているのです。土神はむらむらっと怒《おこ》りました。顔も物凄《ものすご》くまっ黒に変ったのです。美学の本だの望遠鏡だのと、畜生《ちくしょう》、さあ、どうするか見ろ、といきなり狐のあとを追いかけました。樺の木はあわてて枝《えだ》が一ぺんにがたがたふるえ、狐もそのけはいにどうかしたのかと思って何気なくうしろを見ましたら土
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