とて、何にもならぬ、げにもげにも浅間《あさま》しくなさけないわれらの身じゃ。」
梟《ふくろう》の坊さんは一寸《ちょっと》声を切りました。今夜ももう一時の上《のぼ》りの汽車の音が聞えて来ました。その音を聞くと梟どもは泣きながらも、汽車の赤い明るいならんだ窓のことを考えるのでした。講釈がまた始まりました。
「心|暫《しば》らくも安らかなることなしと、どうじゃ、みなの衆、ただの一時《いっとき》でも、ゆっくりと何の心配もなく落ち着いたことがあるかの。もういつでもいつでもびくびくものじゃ。一度《ひとたび》梟身《きょうしん》を尽して又|新《あらた》に梟身を得《う》と斯《こ》うじゃ。泣いて悔《く》やんで悲しんで、ついには年老《としと》る、病気になる、あらんかぎりの難儀《なんぎ》をして、それで死んだら、もうこの様な悪鳥の身を離れるかとならば、仲々そうは参らぬぞや。身に染《し》み込《こ》んだ罪業《ざいごう》から、又梟に生れるじゃ。斯《かく》の如《ごと》くにして百|生《しゃう》、二百生、乃至《ないし》劫《こう》をも亘《わた》るまで、この梟身を免《まぬか》れぬのじゃ。審《つまびらか》に諸の患難を蒙《こうむ》りて又尽くることなし。もう何もかも辛《つら》いことばかりじゃ。さて今東の空は黄金色《きんいろ》になられた。もう月天子《がってんし》がお出ましなのじゃ。来月二十六夜ならば、このお光に疾翔大力《しっしょうたいりき》さまを拝み申すじゃなれど、今宵《こよい》とて又拝み申さぬことでない、みなの衆、ようくまごころを以て仰《あお》ぎ奉るじゃ。」
二十六夜の金いろの鎌《かま》の形のお月さまが、しずかにお登りになりました。そこらはぼおっと明るくなり、下では虫が俄《にわ》かにしいんしいんと鳴き出しました。
遠くの瀬の音もはっきり聞えて参りました。
お月さまは今はすうっと桔梗《ききょう》いろの空におのぼりになりました。それは不思議な黄金《きん》の船のように見えました。
俄かにみんなは息がつまるように思いました。それはそのお月さまの船の尖《とが》った右のへさきから、まるで花火のように美しい紫《むらさき》いろのけむりのようなものが、ばりばりばりと噴《ふ》き出たからです。けむりは見る間にたなびいて、お月さまの下すっかり山の上に目もさめるような紫の雲をつくりました。その雲の上に、金いろの立派な人が三人まっすぐに立っています。まん中の人はせいも高く、大きな眼でじっとこっちを見ています。衣《ころも》のひだまで一一はっきりわかります。お星さまをちりばめたような立派な瓔珞《ようらく》をかけていました。お月さまが丁度その方の頭のまわりに輪になりました。
右と左に少し丈《たけ》の低い立派な人が合掌《がっしょう》して立っていました。その円光はぼんやり黄金《きん》いろにかすみうしろにある青い星も見えました。雲がだんだんこっちへ近づくようです。
「南無《なむ》疾翔大力《しっしょうたいりき》、南無疾翔大力。」
みんなは高く叫びました。その声は林をとどろかしました。雲がいよいよ近くなり、捨身菩薩《しゃしんぼさつ》のおからだは、十丈ばかりに見えそのかがやく左手がこっちへ招くように伸《の》びたと思ふと、俄に何とも云えないいいかおりがそこらいちめんにして、もうその紫の雲も疾翔大力の姿も見えませんでした。ただその澄《す》み切った桔梗いろの空にさっきの黄金《きん》いろの二十六夜のお月さまが、しずかにかかっているばかりでした。
「おや、穂吉さん、息つかなくなったよ。」俄に穂吉の兄弟が高く叫びました。
ほんとうに穂吉はもう冷たくなって少し口をあき、かすかにわらったまま、息がなくなっていました。そして汽車の音がまた聞えて来ました。
底本:「新編風の又三郎」新潮文庫、新潮社
1989(平成元)年2月25日発行
1989(平成元)年6月10日2刷
入力:蒋龍
校正:noriko saito
2009年4月11日作成
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