ご懇請《こんせい》によって、直ちに説法をなされたと斯《こ》うじゃ。汝等|審《つまびらか》に諸の悪業を作ると。汝等というは、元来はわれわれ梟《ふくろう》や鵄《とび》などに対して申さるるのじゃが、ご本意は梟にあるのじゃ、あとのご文の罪相を拝するに、みなわれわれのことじゃ。悪業というは、悪は悪いじゃ、業《ごう》とは梵語《ぼんご》でカルマというて、すべて過去になしたることのまだ報《むくい》となってあらわれぬを業という、善業悪業あるじゃ。ここでは悪業という。その事柄《ことがら》を次にあげなされたじゃ。或は夜陰を以て、小禽の家に至ると。みなの衆、他人事《ひとごと》ではないぞよ。よくよく自《みずか》らの胸にたずねて見なされ。夜陰とは夜のくらやみじゃ。以てとは、これに乗じてというがようの意味じゃ。夜のくらやみに乗じてと、斯うじゃ。小禽の家に至る。小禽とは、雀《すずめ》、山雀《やまがら》、四十雀《しじゅうから》、ひわ、百舌《もず》、みそさざい、かけす、つぐみ、すべて形小にして、力ないものは、みな小禽じゃ。その形小さく力無い鳥の家に参るというのじゃが、参るというてもただ訪ねて参るでもなければ、遊びに参るでもないじゃ、内に深く残忍の想を潜《ひそ》め、外又恐るべく悲しむべき夜叉相《やしゃそう》を浮べ、密《ひそ》やかに忍《しの》んで参ると斯う云うことじゃ。このご説法のころは、われらの心も未《いま》だ仲々善心もあったじゃ、小禽の家に至るとお説きなされば、はや聴法《ちょうほう》の者、みな慄然《りつぜん》として座に耐《た》えなかったじゃ。今は仲々そうでない。今ならば疾翔大力さま、まだまだ強く烈《はげ》しくご説法であろうぞよ。みなの衆、よくよく心にしみて聞いて下され。
次のご文は、時に小禽|既《すで》に終日日光に浴し、歌唄跳躍して、疲労をなし、唯々甘美の睡眠中にあり。他人事ではないぞよ。どうじゃ、今朝も今朝とて穂吉どの処《ところ》を替《か》えてこの身の上じゃ、」
説教の坊さんの声が、俄《にわか》におろおろして変りました。穂吉のお母さんの梟はまるで帛《きぬ》を裂《さ》くように泣き出し、一座の女の梟は、たちまちそれに従《つ》いて泣きました。
それから男の梟も泣きました。林の中はただむせび泣く声ばかり、風も出て来て、木はみなぐらぐらゆれましたが、仲々|誰《たれ》も泣きやみませんでした。星はだんだんめ
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