5−19]食《たんじき》するに、又|懺悔《ざんげ》の念あることなし。
斯《かく》の如《ごと》きの諸の悪業《あくごふ》、挙げて数ふるなし。
悪業を以ての故に、更に又諸の悪業を作る。継起して遂《つひ》に竟《をは》ることなし。昼は則ち日光を懼《おそ》れ、又人|及《および》諸の強鳥を恐る。心|暫《しば》らくも安らかなることなし。一度《ひとたび》梟身《けうしん》を尽して、又|新《あらた》に梟身を得、審《つまびらか》に諸の患難を被《かうむ》りて、又尽くることなし。
で前の晩は、諸鳥歓喜充満せりまで、文の如くに講じたが、此《こ》の席はその次ぢゃ。則ち説いて曰くと、これは疾翔大力さまが、爾迦夷《るかゐ》上人のご懇請によって、直ちに説法をなされたと斯《か》うぢゃ。汝等|審《つまびらか》に諸の悪業を作ると。汝等といふは、元来はわれわれ梟《ふくろふ》や鵄《とび》などに対して申さるゝのぢゃが、ご本意は梟にあるのぢゃ、あとのご文の罪相を拝するに、みなわれわれのことぢゃ。悪業といふは、悪は悪いぢゃ、業《ごふ》とは梵語《ぼんご》でカルマというて、すべて過去になしたることのまだ報《むくい》となってあらはれぬを業といふ、善業悪業あるぢゃ。こゝでは悪業といふ。その事柄を次にあげなされたぢゃ。或は夜陰を以て、小禽《せうきん》の家に至ると。みなの衆、他人事《ひとごと》ではないぞよ。よくよく自《みづか》らの胸にたづねて見なされ。夜陰とは夜のくらやみぢゃ。以てとは、これは乗じてといふがやうの意味ぢゃ。夜のくらやみに乗じてと、斯うぢゃ。小禽の家に至る。小禽とは、雀《すずめ》、山雀《やまがら》、四十雀《しじふから》、ひは、百舌《もず》、みそさざい、かけす、つぐみ、すべて形小にして、力ないものは、みな小禽ぢゃ。その形小さく力無い鳥の家に参るといふのぢゃが、参るといふてもたゞ訪ねて参るでもなければ、遊びに参るでもないぢゃ、内に深く残忍の想を潜め、外又恐るべく悲しむべき夜叉相《やしゃさう》を浮べ、密《ひそ》やかに忍んで参ると斯《か》う云ふことぢゃ。このご説法のころは、われらの心も未だ仲々善心もあったぢゃ、小禽《せうきん》の家に至るとお説きなされば、はや聴法の者、みな慄然《りつぜん》として座に耐へなかったぢゃ。今は仲々さうでない。今ならば疾翔大力《しっしょうたいりき》さま、まだまだ強く烈《はげ》しくご説法であらうぞ
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