たが、又《また》ポケットから
煙草《たばこ》を出して火をつけた。
それからくるっと振《ふ》り向いて
陸の方をじっと見定めて
急いでそっちへ歩いて行った。
そこには低い崖《がけ》があり
崖の脚《あし》には多分は涛《なみ》で
削《けず》られたらしい小さな洞《ほら》があったのだ。
大学士はにこにこして
中へはいって背嚢《はいのう》をとる。
それからまっくらなとこで
もしゃもしゃビスケットを喰《た》べた。
ずうっと向うで一列涛が鳴るばかり。
「ははあ、どうだ、いよいよ宿がきまって腹もできると野宿もそんなに悪くない。さあ、もう一服やって寝《ね》よう。あしたはきっとうまく行く。その夢を今夜見るのも悪くない。」
大学士の吸う巻煙草が
ポツンと赤く見えるだけ、
「斯《こ》う納まって見ると、我輩《わがはい》もさながら、洞熊《ほらくま》か、洞窟《どうくつ》住人だ。ところでもう寝よう。
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闇《やみ》の向うで
涛がぼとぼと鳴るばかり
鳥も啼《な》かなきゃ
洞をのぞきに人も来ず、と。ふん、斯《こ》んなあんばいか。寝ろ、寝ろ。」
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大学士はすぐとろとろする
疲《つか》れて睡《ねむ》れば夢も見ない
いつかすっかり夜が明けて
昨夜の続きの頁岩《けつがん》が
青白くぼんやり光っていた。
大学士はまるでびっくりして
急いで洞を飛び出した。
あわてて帽子《ぼうし》を落しそうになり
それを押《おさ》えさえもした。
「すっかり寝過ごしちゃった。ところでおれは一体何のために歩いているんだったかな。ええと、よく思い出せないぞ。たしかに昨日《きのう》も一昨日《おととい》も人の居ない処《ところ》をせっせと歩いていたんだが。いや、もっと前から歩いていたぞ。もう一年も歩いているぞ。その目的はと、はてな、忘れたぞ。こいつはいけない。目的がなくて学者が旅行をするということはない、必ず目的があるのだ。化石じゃなかったかな。ええと、どうか第三紀の人類に就《つ》いてお調べを願います、と、誰《たれ》か云ったようだ。いいや、そうじゃない、白堊紀《はくあき》の巨《おお》きな爬虫《はちゅう》類の骨骼《こっかく》を博物館の方から頼まれてあるんですがいかがでございましょう、一つお探しを願われますまいかと、斯うじゃなかったかな。斯うだ、斯うだ、ちがいない。さあ、ところでここは白堊系の頁岩だ。もうここでおれは探し出すつもりだったんだ。なるほど、はじめてはっきりしたぞ。さあ探せ、恐竜の骨骼だ。恐竜の骨骼だ。」
学士の影《かげ》は
黒く頁岩の上に落ち
大股《おおまた》に歩いていたから
踊《おど》っているように見えた。
海はもの凄《すご》いほど青く
空はそれより又青く
幾《いく》きれかのちぎれた雲が
まばゆくそこに浮いていた。
「おや出たぞ。」
楢《なら》ノ木大学士が叫《さけ》び出した。
その灰いろの頁岩の
平らな奇麗《きれい》な層面に
直径が一|米《メートル》ばかりある
五本指の足あとが
深く喰《く》い込《こ》んでならんでいる。
所々上の岩のために
かくれているが足裏の
皺《しわ》まではっきりわかるのだ。
「さあ、見附《みつ》けたぞ。この足跡《あしあと》の尽《つ》きた所には、きっとこいつが倒《たお》れたまま化石している。巨きな骨だぞ。まず背骨なら二十米はあるだろう。巨きなもんだぞ。」
大学士はまるで雀躍《こおどり》して
その足あとをつけて行く。
足跡はずいぶん続き
どこまで行くかわからない。
それに太陽の光線は赭《あか》く
たいへん足が疲れたのだ。
どうもおかしいと思いながら
ふと気がついて立ちどまったら
なんだか足が柔《やわ》らかな
泥《どろ》に吸われているようだ。
堅《かた》い頁岩《けつがん》の筈《はず》だったと思って
楢ノ木大学士はうしろを向いた。
そしたら全く愕《おどろ》いた。
さっきから一心に跡《つ》けて来た
巨きな、蟇《がま》の形の足あとは
なるほどずうっと大学士の
足もとまでつづいていて
それから先ももっと続くらしかったが
も一つ、どうだ、大学士の
銀座でこさえた長靴《ながぐつ》の
あともぞろっとついていた。
「こいつはひどい。我輩《わがはい》の足跡までこんなに深く入るというのは実際少し恐《おそ》れ入った。けれどもそれでも探求の目的を達することは達するな。少し歩きにくいだけだ。さあもう斯《こ》うなったらどこまでだって追って行くぞ。」
学士はいよいよ大股《おおまた》に
その足跡をつけて行った。
どかどか鳴るものは心臓
ふいごのようなものは呼吸、
そんなに一生けん命だったが
又そんなにあたりもしずかだった。
大学士はふと波打ぎわを見た。
涛《なみ》がすっかりしずまっていた。
たしかにさっきまで
寄せて吠《ほ》えて砕《くだ》けていた涛が
いつかすっかりしずまっていた。
「こいつは変だ。おまけにずいぶん暑いじゃないか。」
大学士はあおむいて空を見る。
太陽はまるで熟した苹果《りんご》のようで
そこらも無暗《むやみ》に赤かった。
「ずいぶんいやな天気になった。それにしてもこの太陽はあんまり赤い。きっとどこかの火山が爆発《ばくはつ》をやった。その細かな火山灰が正しく上層の気流に混じて地球を包囲しているな。けれどもそれだからと云って我輩のこの追跡には害にならない。もうこの足あとの終るところにあの途方《とほう》もない爬虫《はちゅう》の骨がころがってるんだ。我輩はその地点を記録する。もう一足だぞ。」
大学士はいよいよ勢《いきおい》こんで
その足跡をつけて行く。
ところが間もなく泥浜は
岬《みさき》のように突《つ》き出した。
「さあ、ここを一つ曲って見ろ。すぐ向う側にその骨がある。けれども事によったらすぐないかも知れない。すぐなかったらも少し追って行けばいい。それだけのことだ。」
大学士はにこにこ笑い
立ちどまって巻煙草《まきたばこ》を出し
マッチを擦《す》って煙《けむり》を吐《は》く。
それからわざと顔をしかめ
ごくおうように大股《おおまた》に
岬をまわって行ったのだ。
ところがどうだ名高い楢《なら》ノ木大学士が
釘付《くぎづ》けにされたように立ちどまった。
その眼《め》は空《むな》しく大きく開き
その膝《ひざ》は堅くなってやがてふるえ出し
煙草もいつか泥に落ちた。
青ぞらの下、向うの泥の浜の上に
その足跡の持ち主の
途方もない途方もない雷竜《らいりゅう》氏が
いやに細長い頸《くび》をのばし
汀《なぎさ》の水を呑《の》んでいる。
長さ十間、ざらざらの
鼠《ねずみ》いろの皮の雷竜が
短い太い足をちぢめ
厭《いや》らしい長い頸をのたのたさせ
小さな赤い眼を光らせ
チュウチュウ水を呑んでいる。
あまりのことに楢ノ木大学士は
頭がしいんとなってしまった。
「一体これはどうしたのだ。中生代に来てしまったのか。中生代がこっちの方へやって来たのか。ああ、どっちでもおんなじことだ。とにかくあすこに雷竜《らいりゅう》が居て、こっちさえ見ればかけて来る。大学士も魚も同じことだ。見るなよ、見るなよ。僕はいま、ごくこっそりと戻《もど》るから。どうかしばらく、こっちを向いちゃいけないよ。」
いまや楢《なら》ノ木大学士は
そろりそろりと後退《あとずさ》りして
来た方へ遁《に》げて戻る。
その眼はじっと雷竜を見
その手はそっと空気を押《お》す。
そして雷竜の太い尾が
まず見えなくなりその次に
山のような胴《どう》がかくれ
おしまい黒い舌を出して
びちょびちょ水を呑んでいる
蛇《へび》に似たその頭がかくれると
大学士はまず助かったと
いきなり来た方へ向いた。
その足跡さへずんずんたどって
遁げてさえ行くならもう直きに
汀に涛《なみ》も打って来るし
空も赤くはなくなるし
足あとももう泥に食い込まない
堅い頁岩《けつがん》の上を行く。
崖《がけ》にはゆうべの洞《ほら》もある
そこまで行けばもう大丈夫《だいじょうぶ》
こんなあぶない探険などは
今度かぎりでやめてしまい
博物館へも断わらせて
東京のまちのまん中で
赤い鼻の連中などを
相手に法螺《ほら》を吹いてればいい。
大体こんな計算だった。
それもまるきり電《いなずま》のような計算だ。
ところが楢ノ木大学士は
も一度ぎくっと立ちどまった。
その膝《ひざ》はもうがたがたと鳴り出した。
見たまえ、学士の来た方の
泥の岸はまるでいちめん
うじゃうじゃの雷竜どもなのだ。
まっ黒なほど居《お》ったのだ。
長い頸を天に延ばすやつ
頸をゆっくり上下に振《ふ》るやつ
急いで水にかけ込むやつ
実にまるでうじゃうじゃだった。
「もういけない。すっかりうまくやられちゃった。いよいよおれも食われるだけだ。大学士の号も一所になくなる。雷竜はあんまりひどい。前にも居るしうしろにも居る。まあただ一つたよりになるのはこの岬の上だけだ。そこに登っておれは助かるか助からないか、事によったら新生代の沖積世《ちゅうせきせい》が急いで助けに来るかも知れない。さあ、もうたったこの岬だけだぞ。」
学士はそっと岬にのぼる。
まるで蕈《きのこ》とあすなろとの
合の子みたいな変な木が
崖にもじゃもじゃ生えていた。
そして本当に幸なことは
そこには雷竜がいなかった。
けれども折角《せっかく》登っても
そこらの景色は
あんまりいいというでもない、
岬の右も左の方も
泥の渚《なぎさ》は、もう一めんの雷竜だらけ
実にもじゃもじゃしていたのだ。
水の中でも黒い白鳥のように
頭をもたげて泳いだり
頸《くび》をくるっとまわしたり
その厭《いや》らしいこと恐《こわ》いこと
大学士はもう眼をつぶった。
ところがいつか大学士は
自分の鼻さきがふっふっ鳴って
暖いのに気がついた。
「とうとう来たぞ、喰《く》われるぞ。」
大学士は観念をして眼をあいた。
大さ二尺の四っ角な
まっ黒な雷竜の顔が
すぐ眼の前までにゅうと突き出され
その眼は赤く熟したよう。
その頸は途方《とほう》もない向うの
鼠いろのがさがさした胴まで
まるで管のように続いていた。
大学士はカーンと鳴った。
もう喰われたのだ、いやさめたのだ。
眼がさめたのだ、洞穴《ほらあな》は
まだまっ暗で恐《おそ》らくは
十二時にもならないらしかった。
そこで楢ノ木大学士は
一つ小さなせきばらいをし
まだ雷竜がいるようなので
つくづく闇《やみ》をすかして見る。
外ではたしかに涛《なみ》の音
「なあんだ。馬鹿にしてやがる。もう睡《ねむ》れんぞ。寒いなあ。」
又たばこを出す。火をつける。

楢ノ木大学士は宝石学の専門だ。
その大学士の小さな家
「貝の火|兄弟《けいてい》商会」の
赤鼻の支配人がやって来た。
「先生お手紙でしたから早速とんで来ました。大へんお早くお帰りでした。ごく上等のやつをお見あたりでございましたか、何せ相手がグリーンランドの途方もない成金ですからありふれたものじゃなかなか承知しないんです。」
大学士は葉巻を横にくわえ
雲母紙《うんもし》を張った天井《てんじょう》を
斜《なな》めに見ながらこう云《い》った。
「うん探して来たよ、僕《ぼく》は一ぺん山へ出かけるともうどんなもんでも見附《みつ》からんと云うことは断じてない、けだしすべての宝石はみな僕をしたってあつまって来るんだね。いやそれだから、此度《こんど》なんかもまったくひどく困ったよ。殊《こと》に君注文が割合に柔《やわ》らかな蛋白石《たんぱくせき》だろう。僕がその山へ入ったら蛋白石どもがみんなざらざら飛びついて来てもうどうしてもはなれないじゃないか。それが君みんな貴蛋白石《プレシアスオーパル》の火の燃えるようなやつなんだ。望みのとおりみんな背嚢《はいのう》の中に納めてやりたいことはもちろんだったが、それでは僕も身動きもできなくなるのだから気の毒だったがその中からごくいいやつだけ撰《えら》んださ。」
「ははあ、そいつはどうも、大へん結構でございました。しかし、そのお持ち帰りになりました分はいずれでございますか。一寸《ちょっと》拝見をねがいとう存じます。」
「ああ、見せるよ。ただ僕はあんな立派なやつだから
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