、もう一めんの雷竜だらけ
実にもじゃもじゃしてゐたのだ。
水の中でも黒い白鳥のやうに
頭をもたげて泳いだり
頸をくるっとまはしたり
その厭《いや》らしいこと恐《こは》いこと
大学士はもう眼をつぶった。
ところがいつか大学士は
自分の鼻さきがふっふっ鳴って
暖いのに気がついた。
「たうとう来たぞ、喰はれるぞ。」
大学士は観念をして眼をあいた。
大さ二尺の四っ角な
まっ黒な雷竜《らいりゅう》の顔が
すぐ眼の前までにゅうと突き出され
その眼は赤く熟したやう。
その頸《くび》は途方もない向ふの
鼠《ねずみ》いろのがさがさした胴まで
まるで管のやうに続いてゐた。
大学士はカーンと鳴った。
もう喰はれたのだ、いやさめたのだ。
眼がさめたのだ、洞穴《ほらあな》は
まだまっ暗で恐らくは
十二時にもならないらしかった。
そこで楢《なら》ノ木大学士は
一つ小さなせきばらひをし
まだ雷電が居るやうなので
つくづく闇《やみ》をすかして見る。
外ではたしかに濤《なみ》の音
「なあんだ。馬鹿《ばか》にしてやがる。もう睡《ねむ》れんぞ。寒いなあ。」
又たばこを出す。火をつける。

楢ノ木大学士は宝石学の専門だ。
その大学士の小さな家
「貝の火|兄弟《けいてい》商会」の
赤鼻の支配人がやって来た。
「先生お手紙でしたから早速とんで来ました。大へんお早くお帰りでした。ごく上等のやつをお見あたりでございましたか、何せ相手がグリーンランドの途方もない成金ですからありふれたものぢゃなかなか承知しないんです。」
大学士は葉巻を横にくはへ
雲母紙《うんもし》を張った天井を
斜めに見ながらかう云った。
「うん探して来たよ、僕は一ぺん山へ出かけるともうどんなもんでも見附からんと云ふことは断じてない、けだしすべての宝石はみな僕をしたってあつまって来るんだね。いやそれだから、此度《こんど》なんかもまったくひどく困ったよ。殊に君注文が割合に柔らかな蛋白石《たんぱくせき》だらう。僕がその山へ入ったら蛋白石どもがみんなざらざら飛びついて来てもうどうしてもはなれないぢゃないか。それが君みんな貴蛋白石《プレシアスオーパル》の火の燃えるやうなやつなんだ。望みのとほりみんな背嚢《はいなう》の中に納めてやりたいことはもちろんだったが、それでは僕も身動きもできなくなるのだから気の毒だったがその中からごくいゝやつだけ撰んださ。」
「ははあ、そいつはどうも、大へん結構でございました。しかし、そのお持ち帰りになりました分はいづれでございますか。一寸《ちょっと》拝見をねがひたう存じます。」
「あゝ、見せるよ。たゞ僕はあんな立派なやつだから、事によったらもうすっかり曇ったぢゃないかと思ふんだ。実際蛋白石ぐらゐたよりのない宝石はないからね。今日|虹《にじ》のやうに光ってゐる。あしたは白いたゞの石になってしまふ。今日は円くて美しい。あしたは砕けてこなごなだ。そいつだね、こはいのは。しかしとにかく開いて見よう。この背嚢さ。」
「なるほど。」
貝の火|兄弟《けいてい》商会の
鼻の赤いその支配人は
こくっと息を呑《の》みながら
大学士の手もとを見つめてゐる。
大学士はごく無雑作に
背嚢をあけて逆さにした。
下等な玻璃蛋白石《はりたんぱくせき》が
三十ばかりころげだす。
「先生、困るぢゃありませんか。先生、これでは、何でも、あんまりぢゃありませんか。」
楢《なら》ノ木大学士は怒り出した。
「何があんまりだ。僕の知ったこっちゃない。ひどい難儀をしてあるんだ。旅費さへ返せばそれでよからう。さあ持って行け。帰れ、帰れ。」
大学士は上着の衣嚢《かくし》から
鼠《ねずみ》いろの皺《しわ》くちゃになった状袋を
出していきなり投げつけた。
「先生困ります。あんまりです。」
貝の火|兄弟《けいてい》商会の
赤鼻の支配人は云ひながら
すばやく旅費の袋をさらひ
上着の内衣嚢《うちポケット》に投げ込んだ。
「帰れ、帰れ、もう来るな。」
「先生、困ります。あんまりです。」
たうとう貝の火兄弟商会の
赤鼻の支配人は帰って行き
大学士は葉巻を横にくはへ
雲母紙《うんもし》を張った天井を
斜めに見ながらにやっと笑ふ。



底本:「新修宮沢賢治全集 第十巻」筑摩書房
   1979(昭和54)年9月15日初版第1刷発行
   1983(昭和58)年4月20日初版第5刷発行
入力:林 幸雄
校正:今井忠夫
2003年4月2日作成
青空文庫作成ファイル:
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