楢ノ木大学士の野宿
宮沢賢治

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)楢《なら》ノ木

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)貝の火|兄弟《けいてい》商会

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楢《なら》ノ木大学士は宝石学の専門だ。
ある晩大学士の小さな家《うち》へ、
「貝の火|兄弟《けいてい》商会」の、
赤鼻の支配人がやって来た。
「先生、ごく上等の蛋白石《たんぱくせき》の注文があるのですがどうでせう、お探しをねがへませんでせうか。もっともごくごく上等のやつをほしいのです。何せ相手がグリーンランドの途方もない成金ですから、ありふれたものぢゃなかなか承知しないんです。」
大学士は葉巻を横にくはへ、
雲母紙《うんもし》を張った天井を、
斜めに見上げて聴いてゐた。
「たびたびご迷惑で、まことに恐れ入りますが、いかゞなもんでございませう。」
そこで楢ノ木大学士は、
にやっと笑って葉巻をとった。
「うん、探してやらう。蛋白石のいゝのなら、流紋玻璃《りうもんはり》を探せばいゝ。探してやらう。僕は実際、一ぺんさがしに出かけたら、きっともう足が宝石のある所へ向くんだよ。そして宝石のある山へ行くと、奇体に足が動かない。直覚だねえ。いや、それだから、却《かへ》って困ることもあるよ。たとへば僕は一千九百十九年の七月に、アメリカのヂャイアントアーム会社の依嘱を受けて、紅宝玉《ルビー》を探しにビルマへ行ったがね、やっぱりいつか足は紅宝玉《ルビー》の山へ向く。それからちゃんと見附かって、帰らうとしてもなかなか足があがらない。つまり僕と宝石には、一種の不思議な引力が働いてゐる、深く埋《うづ》まった紅宝玉《ルビー》どもの、日光の中へ出たいといふその熱心が、多分は僕の足の神経に感ずるのだらうね。その時も実際困ったよ。山から下りるのに、十一時間もかかったよ。けれどもそれがいまのバララゲの紅宝玉坑《ルビーかう》さ。」
「ははあ、そいつはどうもとんだご災難でございました。しかしいかゞでございませう。こんども多分はそんな工合《ぐあひ》に参りませうか。」
「それはもうきっとさう行くね。たゞその時に、僕が何かの都合のために、たとへばひどく疲れてゐるとか、狼《おほかみ》に追はれてゐるとか、あるいはひどく神経が興奮してゐるとか、そんなやうな事情から、ふっとその引力を感じないといふやうなことはあるかもしれない。しかしとにかく行って来よう。二週間目にはきっと帰るから。」
「それでは何分お願ひいたします。これはまことに軽少ですが、当座の旅費のつもりです。」
貝の火兄弟商会の、
鼻の赤いその支配人は、
ねずみ色の状袋を、
上着の内衣嚢《うちポケット》から出した。
「さうかね。」
大学士は別段気にもとめず、
手を延ばして状袋をさらひ、
自分の衣嚢《かくし》に投げこんだ。
「では何分とも、よろしくお願ひいたします。」
そして「貝の火|兄弟《けいてい》商会」の、
赤鼻の支配人は帰って行った。
次の日諸君のうちの誰《たれ》かは、
きっと上野の停車場で、
途方もない長い外套《ぐゎいたう》を着、
変な灰色の袋のやうな背嚢《はいなう》をしょひ、
七キログラムもありさうな、
素敵な大きなかなづちを、
持った紳士を見ただらう。
それは楢《なら》の木大学士だ。
宝石を探しに出掛けたのだ。
出掛けた為《ため》にたうとう楢ノ木大学士の、
野宿といふことも起ったのだ。
三晩といふもの起ったのだ。

  野宿第一夜

四月二十日の午后四時|頃《ころ》、
例の楢ノ木大学士が
「ふん、此《こ》の川筋があやしいぞ。たしかにこの川筋があやしいぞ」
とひとりぶつぶつ言ひながら、
からだを深く折り曲げて
眼《め》一杯にみひらいて、
足もとの砂利をねめまはしながら、
兎《うさぎ》のやうにひょいひょいと、
葛丸《くずまる》川の西岸の
大きな河原をのぼって行った。
両側はずゐぶん嶮《けは》しい山だ。
大学士はどこまでも溯《のぼ》って行く。
けれどもたうとう日も落ちた。
その両側の山どもは、
一生懸命の大学士などにはお構ひなく
ずんずん黒く暮れて行く。
その上にちょっと顔を出した
遠くの雪の山脈は、
さびしい銀いろに光り、
てのひらの形の黒い雲が、
その上を行ったり来たりする。
それから川岸の細い野原に、
ちょろちょろ赤い野火が這《は》ひ、
鷹《たか》によく似た白い鳥が、
鋭く風を切って翔《か》けた。
楢《なら》ノ木大学士はそんなことには構はない。
まだどこまでも川を溯って行かうとする。
ところがたうとう夜になった。
今はもう河原の石ころも、
赤やら黒やらわからない。
「これはいけない。もう夜だ。寝なくちゃなるまい。今夜はずゐぶん久し
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