行くぞ。」
学士はいよいよ大股《おほまた》に
その足跡をつけて行った。
どかどか鳴るものは心臓
ふいごのやうなものは呼吸、
そんなに一生けん命だったが
又そんなにあたりもしづかだった。
大学士はふと波打ぎはを見た。
濤《なみ》がすっかりしづまってゐた。
たしかにさっきまで
寄せて吠《ほ》えて砕けてゐた濤が
いつかすっかりしづまってゐた。
「こいつは変だ。おまけにずゐぶん暑いぢゃないか。」
大学士はあふむいて空を見る。
太陽はまるで熟した苹果《りんご》のやうで
そこらも無暗《むやみ》に赤かった。
「ずゐぶんいやな天気になった。それにしてもこの太陽はあんまり赤い。きっとどこかの火山が爆発をやった。その細かな火山灰が正しく上層の気流に混じて地球を包囲してゐるな。けれどもそれだからと云って我輩のこの追跡には害にならない。もうこの足あとの終るところにあの途方もない爬虫《はちゅう》の骨がころがってるんだ。我輩はその地点を記録する。もう一足だぞ。」
大学士はいよいよ勢《いきほひ》こんで
その足跡をつけて行く。
ところが間もなく泥浜は
岬《みさき》のやうに突き出した。
「さあ、こゝを一つ曲って見ろ。すぐ向ふ側にその骨がある。けれども事によったらすぐ無いかも知れない。すぐなかったらも少し追って行けばいゝ。それだけのことだ。」
大学士はにこにこ笑ひ
立ちどまって巻煙草《まきたばこ》を出し
マッチを擦《す》って煙を吐く。
それからわざと顔をしかめ
ごくおうやうに大股《おほまた》に
岬をまはって行ったのだ。
ところがどうだ名高い楢《なら》ノ木大学士が
釘付《くぎづ》けにされたやうに立ちどまった。
その眼は空しく大きく開き
その膝《ひざ》は堅くなってやがてふるへ出し
煙草もいつか泥に落ちた。
青ぞらの下、向ふの泥の浜の上に
その足跡の持ち主の
途方もない途方もない雷竜《らいりゅう》氏が
いやに細長い頸《くび》をのばし
汀《なぎさ》の水を呑《の》んでゐる。
長さ十間、ざらざらの
鼠《ねずみ》いろの皮の雷竜が
短い太い足をちゞめ
厭《いや》らしい長い頸をのたのたさせ
小さな赤い眼を光らせ
チュウチュウ水を呑んでゐる。
あまりのことに楢ノ木大学士は
頭がしいんとなってしまった。
「一体これはどうしたのだ。中生代に来てしまったのか。中生代がこっちの方へやって来たのか。ああ、どっちでもおんなじことだ。とにかくあすこに雷竜《らいりゅう》が居て、こっちさへ見ればかけて来る。大学士も魚も同じことだ。見るなよ、見るなよ。僕はいま、ごくこっそりと戻るから。どうかしばらく、こっちを向いちゃいけないよ。」
いまや楢《なら》ノ木大学士は
そろりそろりと後退《あとずさ》りして
来た方へ遁《に》げて戻る。
その眼はじっと雷竜を見
その手はそっと空気を押す。
そして雷竜の太い尾が
まづ見えなくなりその次に
山のやうな胴がかくれ
おしまひ黒い舌を出して
びちょびちょ水を呑《の》んでゐる
蛇《へび》に似たその頭がかくれると
大学士はまづ助かったと
いきなり来た方へ向いた。
その足跡さへずんずんたどって
遁げてさへ行くならもう直きに
汀《なぎさ》に濤《なみ》も打って来るし
空も赤くはなくなるし
足あとももう泥に食ひ込まない
堅い頁岩《けつがん》の上を行く。
崖《がけ》にはゆふべの洞《ほら》もある
そこまで行けばもう大丈夫
こんなあぶない探険などは
今度かぎりでやめてしまひ
博物館へも断はらせて
東京のまちのまん中で
赤い鼻の連中などを
相手に法螺《ほら》を吹いてればいゝ。
大体こんな計算だった。
それもまるきり電《いなづま》のやうな計算だ。
ところが楢《なら》ノ木大学士は
も一度ぎくっと立ちどまった。
その膝《ひざ》はもうがたがたと鳴り出した。
見たまへ、学士の来た方の
泥の岸はまるでいちめん
うじゃうじゃの雷竜《らいりゅう》どもなのだ。
まっ黒なほど居ったのだ。
長い頸《くび》を天に延ばすやつ
頸をゆっくり上下に振るやつ
急いで水にかけ込むやつ
実にまるでうじゃうじゃだった。
「もういけない。すっかりうまくやられちゃった。いよいよおれも食はれるだけだ。大学士の号も一所になくなる。雷竜はあんまりひどい。前にも居るしうしろにも居る。まあたゞ一つたよりになるのはこの岬《みさき》の上だけだ。そこに登っておれは助かるか助からないか、事によったら新生代の沖積世が急いで助けに来るかも知れない。さあ、もうたったこの岬だけだぞ。」
学士はそっと岬にのぼる。
まるで蕈《きのこ》とあすなろとの
合の子みたいな変な木が
崖《がけ》にもじゃもじゃ生えてゐた。
そして本当に幸なことは
そこには雷竜が居なかった。
けれども折角登っても
そこらの景色は
あんまりいゝといふでもない、
岬の右も左の方も
泥の渚《なぎさ》は
前へ
次へ
全10ページ中9ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮沢 賢治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング