山地の稜
宮沢賢治

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)眼《め》は

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)一向|差支《さしつか》へはない

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#「ん」は小書き]
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 高橋吉郎が今朝は殊に小さくて青じろく少しけげんさうにこっちを見てゐる。清原も見てゐる。たった二人でぬれた運動場の朝のテニスもさびしいだらう。そのいぶかしさうな眼《め》はどこかへ行くならおれたちも行きたいなと云《い》ふのか。それとも私が温床へ水でも灌《そそ》ぐとこかも知れないと考へてゐるのか。黄いろの上着を着たってきっと働くと限ったわけぢゃないんだぞ。私は今朝は一寸《ちょっと》の間つめたい草を見て来たいんだ。だから一人だ。つれて行かない。大事なんだから。
 温床とこはれた浴槽《よくさう》。
 こゝの細い桑も今はまったくやはらかな芽を出した。その細桑の灰光は明らかで光ってそしてそろってゐる。
 すぎなは青く美しくすぎなは青くて透明な露もとまって本当に新らしいのだ。
 右手の奥の方では寄宿の窓のガラスも光る。黄ばらのひかり、すぎなと砂利。
 これはレールだ。
 それから影だ。手帳。
 ゆっくり行けば朝のレールは白くひかる。強くて白くかゞやく、
 子供のうすい影法師、私は線路の砂利も見る。
 ごくあたり前だがぬれてるやうな気もします。
 工夫がうしろからいそいで通りこす。横目でこっちを見ながら行く。少し冷笑してゐるらしい。それでもずんずん行ってしまふ。万法流転。流れと早さ。も一人あとから誰《たれ》か来る。うしろから手帳をのぞき込まうとするのか。それでも一向|差支《さしつか》へはない。やっぱり工夫だ。ところが向ふのあの人は工夫ではなかったんだな。大工か何かだったな、どてをのぼって草をこいで行ってしまふ。
 この横が土木の似鳥さんの泊ってゐる家だ。女もゐる。そのうちの前で手帳なんかをひろげたって一向気取ったわけぢゃない。
(紙の白と直立。)
 一向気取ったわけぢゃない。しなければならなくてしてゐるんだ。けれどももしこれがしんとした蒼黝《あをぐろ》い空間でならば全くどんなにいいだらう。それでも仕方ない。
 低い崖《がけ》と草。草。東の雲はまっ白でぎらぎら光る。
 虎戸《とらと》の家だ。虎戸があすこの格子からちらっとこっちを見たかもしれない。けれどもどうも仕方ない。あすこの池で魚を釣ってゐるのは虎戸の弟だ。たしかにさうだ。
 立派だ。この雲のひかり Sun−beam がまさしく今日もそゝいでゐる。
 雲は陽《ひ》を濾《こ》す、雲は陽を濾すとしようかな、白秋にそんな調子がある。
 向ふから女の人と子供がやって来る。みたやうな人だ。純哉《じゅんや》さんのうちの人だ。知らない風で行かうか。何か云ひさうだ。とまる。
 云ふ云ふ。
「まんつ見申したよだど思ったへば豊沢小路《としゃこうぢ》のあぃなさんでお出ゃん[#「ん」は小書き]すた。おまめしござんしたすか。」この人がこんなに云ってくれるとは思はなかった。けれども×××××××××××××××××××××とき××××××××××××××××なんだ。
「はあ、おありがどござんす。お蔭でまめしくて居《を》りあん[#「ん」は小書き]す。」純哉さんもおまめしくてと云はうかな、いや家から出てどこへ行ったかわからなかったと云ふんだ。この辺を夕方しょんぼり行ったり来たりしてゐたのを見た人もあると云った。台湾、やっぱり云はない方がいゝ。
「お内のお母さんだぢと始終ご一緒して居りあん[#「ん」は小書き]す。」純哉さんの妹は唇《くちびる》が紫で心臓が悪かった。この人も少し紫だ。
「はあそでござんすか。」この人の鼻はけはしくて写楽のやうに見えるけれどもどこか立派なところもある。
「それがらおうぢのあねさんおあん[#「ん」は小書き]ばぃ悪ぃふでごぁんすたなぢょでお出ゃんすべなす。」
「はあ、あんまり変らなござんす。」
「おりゃの米子《よねこ》どもいっつもお話し申してあん[#「ん」は小書き]す。」
 ありがたう。そんなにほかの人までが考へてゐてくれるのかな、おれでさへ昼学校では大抵まぎれて忘れてゐるのだ。
「ほんとにおありがどござんす。」おじぎをしたのでこの人はもう行かうとする。いまはお礼を云ったのだ。もう一ぺん云はう。
「ほんたうにおありがどござんす。暖ぐなったらど思ってゐあん[#「ん」は小書き]すたどもやっぱりその通りで善《ゆ》ぐもならなぃで。」
「まぁんつたびだび米子どもお話してあん[#「ん」は小書き]すすか。」
「おありがどござんす。」
「おありがどござんす。」
 汽車はのぼって来るのぼって来ると子供が云ってゐる。人は影と一緒に向ふへ行く
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