麦のはぜがずうっとかかってその向ふに小さな赤い屋根の家と井戸と柳の木とが明るく日光に照ってゐるのを見ました。
 ハーシュはその麦はぜの下に一本の繩が落ちてゐるのを見ました。ハーシュは屈《かが》んで拾はうとしましたら、いきなりうしろから高い女の声がしました。
「何する、持って行くな、ひとのもの。」ハーシュはびっくりしてふり返って見ましたら顔の赤いせいの高い百姓のおかみさんでした。ハーシュはどぎまぎして云ひました。
「車がこはれましてね。あとで何かお礼をしますからどうかゆづってやって下さい。」
「いけない。ひとが一生けん命|綯《な》ったものをだまって持って行く。町の者みんな斯《か》うだ。」
 ハーシュはしょげて繩をそこに置いて車の方に戻りました。百姓のおかみさんはあとでまだぶつぶつ云ってゐました。
「あの繩綯ふに一時間かかったんだ。仕方ない。怒るのはもっともだ。」ハーシュは眼《め》をつぶってさう思ひました。
「あゝ、くさび何処《どこ》かに落ちてるな。さがせばいゝんだ。」
 ハーシュは車のとこに戻ってそれから又来た方を戻ってくさびをたづねました。
「早くおいでよ。」子供が足を長くして車の上に座りながら云ひました。
 くさびはすぐおほばこの中に落ちてゐました。
「あ、あった。何でもない。」ハーシュはくさびを車輪にはめようとしました。
「まだはめない方がいゝよ。すぐ川があるから。」子供が云ひました。
 ハーシュは笑ひながらくさびをはめて油で黒くなった手を草になすりました。
「さあ行きますよ。」
 車がまた動きました。ところが子供の云ったやうにすぐ小さな川があったのです。二本の松木が橋になってゐました。
 ははあ、この子供がくさびをはめない方がいゝと云ったのは車輪が下で寄さってこの橋を通れるといふのだな、ハーシュはひとりで考へて笑ひました。
 水は二寸ぐらゐしかありませんでしたからハーシュは車を引いて川をわたりました。砂利ががりがり云ひ子供はいよいよ一生けん命にしがみ附いてゐました。
 そして松林のはづれに小さなテレピン油の工場が見えて来ました。松やにの匂《にほひ》がしぃんとして青い煙はあがり日光はさんさんと降ってゐました。その戸口にハーシュは車をとめて叫びました。
「兵営からテレピン油を取りに来ました。」
 技師長兼職工が笑って顔を出しました。
「済みません。いまお届けしよう
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