。」ジヨバンニがききました。
「ここだよ。」カムパネルラは鷲の停車場の少し南を指さしました。
 川下の向う岸に青く茂つた大きな林が見え、その枝には熟してまつ赤に光る圓い實がいつぱい、その林のまん中に高い高い三角標が立つて、森の中からはオーケストラベルやジロフオンにまじつて何とも云へずきれいな音いろが、とけるやうに浸みるやうに風につれて流れて來るのでした。
 青年はぞくつとしてからだをふるふやうにしました。
 だまつてその譜を聞いてゐると、そこらにいちめん黄いろや、うすい緑の明るい野原か敷物かがひろがり、またまつ白な臘のやうな霧が太陽の面を擦めて行くやうに思はれました。
「まあ、あの烏。」カムパネルラのとなりの、かほると呼ばれた女の子が叫びました。
「からすでない。みんなかささぎだ。」カムパネルラがまた何氣なく叱るやうに叫びましたので、ジヨバンニはまた思はず笑ひ、女の子はきまり惡さうにしました。まつたく河原の青じろいあかりの上に、黒い鳥がたくさんたくさんいつぱいに列になつてとまつてぢつと川の微光を受けてゐるのでした。
「かささぎですねえ、頭のうしろのところに毛がぴんと延びてますから。」青年はとりなすやうに云ひました。
 向うの青い森の中の三角標はすつかり汽車の正面に來ました。そのとき汽車のずうつとうしろの方から、あの聞きなれた三〇六番の讚美歌のふしが聞えてきました。よほどの人數で合唱してゐるらしいのでした。
 青年はさつと顏いろが青ざめ、たつて一ぺんそつちへ行きさうにしましたが思ひかへしてまた坐りました。
 かほるはハンケチを顏にあててしまひました。
 ジヨバンニまで何だか鼻が變になりました。けれどもいつともなく誰ともなくその歌は歌ひ出され、だんだんはつきり強くなりました。思はずジヨバンニもカムパネルラも一緒にうたひ出したのです。
 そして青い橄欖の森が、見えない天の川の向うにさめざめと光りながらだんだんうしろの方へ行つてしまひ、そこから流れて來るあやしい樂器の音も、もう汽車のひびきや風の音にすり耗らされてずうつとかすかになりました。
「あ、孔雀が居るよ。あ、孔雀が居るよ。」
「あの森|琴《ライラ》の宿でせう。あたしきつとあの森の中には、むかしの大きなオーケストラの人たちが集まつていらつしやると思ふわ。まはりには青い孔雀やなんかたくさんゐると思ふわ。」女の子が答へました。
 ジヨバンニは、その小さく小さくなつていまはもう一つの緑いろの貝ぼたんのやうに見える森の上に、さつと青じろく時々光つて、その孔雀がはねをひろげたりとぢたりするのを見ました。
「さうだ、孔雀の聲だつてさつき聞えた。」カムパネルラが女の子に云ひました。
「ええ、三十疋ぐらゐはたしかに居たわ。」女の子が答へました。
 ジヨバンニは俄かに何とも云へずかなしい氣がして、思はず、
「カムパネルラ、ここからはねおりて遊んで行かうよ。」とこはい顏をして云はうとしたくらゐでした。
 ところがそのときジヨバンニは川下の遠くの方に不思議なものを見ました。
 それはたしかになにか黒いつるつるした細長いもので、あの見えない天の川の水の上に飛び出してちよつと弓のやうなかたちに進んで、また水の中にかくれたやうでした。をかしいと思つてまたよく氣を付けてゐましたらこんどはずつと近くでまたそんなことがあつたらしいのでした。そのうちもうあつちでもこつちでも、その黒いつるつるした變なものが水から飛び出して、圓く飛んでまた頭から水へくぐるのがたくさん見えて來ました。みんな魚のやうに川上へのぼるらしいのでした。
「まあ、何でせう。たあちやん、ごらんなさい。まあ澤山だわね。何でせうあれ。」
 睡むさうに眼をこすつてゐた男の子はびつくりしたやうに立ちあがりました。
「何だらう。」青年も立ちあがりました。
「まあ、をかしな魚だわ、何でせうあれ。」
「海豚です。」カムパネルラがそつちを見ながら答へました。
「海豚だなんてあたしはじめてだわ。けどここ海ぢやないんでせう。」
「いるかは海に居るときまつてゐない。」あの不思議な低い聲がまたどこからかしました。
 ほんたうにそのいるかのかたちのをかしいことは、二つのひれを丁度兩手をさげて不動の姿勢をとつたやうな風にして水の中から飛び出して來て、うやうやしく頭を下にして不動の姿勢のまままた水の中へくぐつて行くのでした。見えない天の川の水もそのときはゆらゆらと青い焔のやうに波をあげるのでした。
「いるかお魚でせうか。」女の子がカムパネルラにはなしかけました。男の子はぐつたりつかれたやうに席にもたれて睡つてゐました。
「いるか、魚ぢやありません。くぢらと同じやうなけだものです。」カムパネルラが答へました。
「あなたくぢら見たことあつて。」
「僕あります。くぢら、頭と黒いしつぽだけ見えます。潮を吹くと丁度本にあるやうになります。」
「くぢらなら大きいわねえ。」
「くぢら大きいです。子供だつているかぐらゐあります。」
「さうよ、あたしアラビアンナイトで見たわ。」姉は細い銀いろの指輪をいぢりながらおもしろさうにはなししてゐました。
(カムパネルラ、僕もう行つちまふぞ。僕なんか鯨だつて見たことないや。)
 ジヨバンニはまるでたまらないほどいらいらしながら、それでも堅く唇を噛んでこらへて窓の外を見てゐました。
 その窓の外には海豚のかたちももう見えなくなつて川は二つにわかれました。そのまつくらな島のまん中に、高い高いやぐらが一つ組まれてその上に、一人の寛い服を着て赤い帽子をかぶつた男が立つてゐました。そして兩手に赤と青の旗をもつてそらを見上げて信號してゐるのでした。
 ジヨバンニが見てゐる間、その人はしきりに赤い旗をふつてゐましたが、俄かに赤旗をおろしてうしろにかくすやうにし、青い旗を高く高くあげてまるでオーケストラの指揮者のやうに烈しく振りました。すると空中にざあつと雨のやうな音がして、何かまつくろなものがいくかたまりもいくかたまりも、鐵砲彈のやうに川の向うの方へ飛んで行くのでした。ジヨバンニは思はず窓からからだを半分出して、そつちを見あげました。
 美しい美しい桔梗いろのがらんとした空の下を、實に何萬といふ小さな鳥どもが幾組も幾組も、めいめいせはしくせはしく鳴いて通つて行くのでした。
「鳥が飛んで行くな。」ジヨバンニが窓の外で云ひました。
「どら。」カムパネルラもそらを見ました。
 そのときあのやぐらの上のゆるい服の男は、俄かに赤い旗をあげて狂氣のやうにふりうごかしました。するとぴたつと鳥の群は通らなくなり、それと同時にぴしやあんといふ潰れたやうな音が川下の方で起つて、それからしばらくしいんとしました。と思つたらあの赤帽の信號手がまた青い旗をふつて叫んでゐたのです。
「いまこそわたれわたり鳥、いまこそわたれわたり鳥。」その聲もはつきり聞えました。それといつしよにまた幾萬といふ鳥の群がそらをまつすぐにかけたのです。
 二人の顏を出してゐるまん中の窓からあの女の子が顏を出して、美しい頬をかがやかせながら大ぞらを仰ぎました。
「まあ、この鳥、たくさんですわねえ。あらまあそらのきれいなこと。」女の子はジヨバンニにはなしかけました。けれどもジヨバンニは生意氣な、いやだいと思ひながら、だまつて口をむすんでそらを見あげてゐました。
 女の子は小さくほつと息をして、だまつて席へ戻りました。カムパネルラが氣の毒さうに窓から顏を引つ込めて地圖を見てゐました。
「あの人鳥へ教へてるんでせうか。」女の子がそつとカムパネルラにたづねました。
「わたり鳥へ信號してるんです。きつとどこからかのろしがあがるためでせう。」
 カムパネルラが少しおぼつかなささうに答へました。そして車の中はしいんとなりました。
 ジヨバンニはもう頭を引つ込めたかつたのですけれども、明るいとこへ顏を出すのがつらかつたので、だまつてこらへてそのまま立つて口笛を吹いてゐました。
(どうして僕はこんなにかなしいのだらう。僕はもつとこころもちをきれいに大きくもたなければいけない。あすこの岸のずうつと向うにまるでけむりのやうな小さな青い火が見える。あれはほんたうにしづかでつめたい。僕はあれをよく見てこころもちをしづめるんだ。)
 ジヨバンニは熱つて痛いあたまを兩手で押へるやうにして、そつちの方を見ました。
(ああほんたうにどこまでもどこまでも僕といつしよに行くひとはないだらうか。カムパネルラだつてあんな女の子とおもしろさうに話してゐるし、僕はほんたうにつらいなあ。)
 ジヨバンニの眼はまた泪でいつぱいになり、天の川もまるで遠くへ行つたやうにぼんやり白く見えるだけでした。
 そのとき汽車はだんだん川からはなれて崖の上を通るやうになりました。向う岸もまた黒いいろの崖が川の岸を下流に下るにしたがつて、だんだん高くなつて行くのでした。そしてちらつと大きなたうもろこしの木を見ました。その葉はぐるぐるに縮れ、葉の下にはもう美しい緑いろの大きな苞が赤い毛を吐いて、眞珠のやうな實もちらつと見えたのでした。
 それはだんだん數を増して來て、もういまは列のやうに崖と線路との間にならび、思はずジヨバンニが窓から顏を引つ込めて向う側の窓を見ましたときは、美しいそらの野原、地平線のはてまで、その大きなたうもろこしの木がほとんどいちめんに植ゑられてさやさや風にゆらぎ、その立派なちぢれた葉のさきからは、まるでひるの間にいつぱい日光を吸つた金剛石のやうに、露がいつぱいについて赤や緑やきらきら燃えて光つてゐるのでした。
 カムパネルラが、
「あれたうもろこしだねえ。」とジヨバンニに云ひましたけれども、ジヨバンニはどうしても氣持がなほりませんでしたから、ただぶつきら棒に野原を見たまま、
「さうだらう。」と答へました。
 そのとき汽車はだんだんしづかになつて、いくつかのシグナルとてんてつ器の灯を過ぎ、小さな停車場にとまりました。
 その正面の青じろい時計はかつきり第二時を示し、その振子は、風もなくなり汽車もうごかずしづかなしづかな野原のなかに、カチツカチツと正しく時を刻んで行くのでした。
 そしてまつたくその振子の音の間から遠くの遠くの野原のはてから、かすかなかすかな旋律が糸のやうに流れて來るのでした。「新世界交響樂だわ。」向うの席の姉がひとりごとのやうにこつちを見ながらそつと言ひました。全くもう車の中ではあの黒服の丈高い青年も誰れもみんなやさしい夢を見てゐるのでした。
(こんなしづかないいところで僕はどうしてもつと愉快になれないだらう。どうしてこんなにひとりさびしいのだらう。けれどもカムパネルラなんかあんまりひどい。僕といつしよに汽車に乘つてゐながら、まるであんな女の子とばかり話してゐるんだもの。僕はほんたうにつらい。)
 ジヨバンニはまた兩手で顏を半分かくすやうにして、向うの窓のそとを見つめてゐました。
 すきとほつた硝子のやうな笛が鳴つて、汽車はしづかに動き出し、カムパネルラもさびしさうに星めぐりの口笛を吹きました。
「ええ、ええ、もうこの邊はひどい高原ですから。」
 うしろの方で誰かとしよりらしい人の、いま眼がさめたといふ風ではきはき話してゐる聲がしました。
「たうもろこしだつて棒で二尺も孔をあけておいて、そこへ播かないと生えないんです。」
「さうですか、川まではよほどありませうかねえ。」
「ええ、ええ、河までは二千尺から六千尺あります。もうまるでひどい峽谷になつてゐるんです。」
 さうさう、ここはコロラドの高原ぢやなかつたらうか、ジヨバンニは思はずさう思ひました。
 姉は弟を自分の胸によりかからせて睡らせながら、黒い瞳をうつとりと遠くへ投げて何を見るでもなしに考へ込んで居るのでしたし、カムパネルラはまたさびしさうにひとり口笛を吹き、男の子はまるで絹で包んだ苹果のやうな顏いろをしてねむつて居りました。
 突然たうもろこしがなくなつて、巨きな黒い野原がいつぱいにひらけました。
 新世界交響樂ははつきり地平線のはてから湧き、そのまつ黒な野原のなかを一人のインデア
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