しいものは一體なんですか、と訊かうとして、それではあんまり出し拔けだから、どうせうかと考へて振り返つて見ましたら、そこにはもうあの鳥捕りが居ませんでした。
網棚の上には白い荷物も見えなかつたのです。また窓の外で足をふんばつてそらを見上げて鷺を捕る支度をしてゐるのかと思つて、急いでそつちを見ましたが、外はいちめんのうつくしい砂子と白いすすきの波ばかり、あの鳥捕りの廣いせなかも尖つた帽子も見えませんでした。
「あの人どこへ行つたらう。」カムパネルラもぼんやりさう云つてゐました。
「どこへ行つたらう。一體どこでまたあふのだらう。僕はどうしても少しあの人に物を言はなかつたらう。」
「ああ、僕もさう思つてゐるよ。」
「僕はあの人が邪魔なやうな氣がしたんだ。だから僕は大へんつらい。」
ジヨバンニはこんな變てこな氣もちは、ほんたうにはじめてだし、こんなこと今まで云つたこともないと思ひました。
「何だか苹果の匂がする。僕いま苹果のことを考へたためだらうか。」カムパネルラが不思議さうにあたりを見まはしました。
「ほんたうに苹果の匂ひだよ。それから野茨の匂もする。」
ジヨバンニもそこらを見ましたがやつぱりそれは窓からでも入つて來るらしいのでした。いま秋だから野茨の花の匂のする筈はないとジヨバンニは思ひました。
そしたら俄かにそこに、つやつやした黒い髮の六つばかりの男の子が赤いジヤケツのぼたんもかけず、ひどくびつくりしたやうな顏をして、がたがたふるへてはだしで立つてゐました。隣りには黒い洋服をきちんと着た、せいの高い青年が一ぱいに風に吹かれてゐるけやきの木のやうな姿勢で、男の子の手をしつかりひいて立つてゐました。
「あら、ここどこでせう。まあ、きれいだわ。」青年のうしろにもひとり、十二ばかりの眼の茶いろな、可愛らしい女の子が黒い外套を着て、青年の腕にすがつて、不思議さうに窓の外を見てゐるのでした。
「ああ、ここはランカシヤイヤだ。いや、コンネクチカツト州だ。いや、ああぼくたちはそらへ來たのだ。わたしたちは天へ行くのです。ごらんなさい、あのしるしは天上のしるしです。もうなんにもこはいことはありません。わたくしたちは神さまに召されてゐるのです。」
黒服の青年はよろこびにかがやいてその女の子に云ひました。けれどもなぜかまた、額に深く皺を刻んで、それに大へんつかれてゐるらしく、無理に笑ひながら男の子をジヨバンニのとなりに坐らせました。
それから女の子にやさしくカムパネルラのとなりの席を指さしました。女の子はすなほにそこへ坐つてきちんと兩手を組み合せました。
「ぼく、おほねえさん。お父さんのとこへ行くんだよう。」腰掛けたばかりの男の子は顏を變にして、燈臺看守の向うの席に坐つたばかりの青年に云ひました。青年は何とも云へず悲しさうな顏をして、ぢつとその子の、ちぢれてぬれた頭を見ました。
女の子は、いきなり兩手を顏にあててしくしく泣いてしまひました。
「お父さんやきくよねえさんはまだいろいろお仕事があるのです。けれどももうすぐあとからいらつしやいます。それよりも、おつかさんはどんなに永く待つていらつしやつたでせう。
わたしの大事なタダシはいまどんな歌をうたつてゐるだらう、雪の降る朝にみんなと手をつないで、ぐるぐるにはとこのやぶをまはつてあそんでゐるだらうかと考へたり、ほんたうに待つて、心配していらつしやるんですから、早く行つて、おつかさんにお目にかかりませうね。」
「うん、だけど僕、船に乘らなけあよかつたなあ。」
「ええ、けれど、ごらんなさい。そら、どうです。あの立派な川、ね、あすこはあの夏中、ツヰンクル、ツヰンクル、リトル、スターをうたつてやすむとき、いつも窓からぼんやり白く見えてゐたでせう、あすこですよ。ね、きれいでせう、あんなに光つてゐます。」
泣いてゐた姉もハンケチで眼をふいて外を見ました。青年は教へるやうにそつと姉弟にまた云ひました。
「わたしたちはもう、なんにもかなしいことはないのです。わたくしたちはこんないいとこを旅して、ぢき神さまのとこへ行きます。そこならもう、ほんたうに明るくて匂がよくて立派な人たちでいつぱいです。そしてわたしたちの代りに、ボートへ乘れた人たちは、きつとみんな助けられて、心配して待つてゐるめいめいのお父さんやお母さんや自分のお家やらへ行くのです。さあ、もうぢきですから元氣を出しておもしろくうたつて行きませう。」
青年は男の子のぬれたやうな黒い髮をなで、みんなを慰めながら、自分もだんだん顏いろがかがやいて來ました。
「あなた方はどちらからいらつしやつたのですか。どうなすつたのですか。」
さつきの燈臺看守がやつと少しわかつたやうに、青年にたづねました。
青年はかすかにわらひました。
「いえ、氷山にぶつつかつて船が沈みましてね。わたしたちはこちらのお父さんが急な用で二ヶ月前、一足さきに本國へお歸りになつたので、あとから發つたのです。私は大學へはいつてゐて、家庭教師にやとはれてゐたのです。ところがちやうど十二日目、今日か昨日のあたりです。船が氷山にぶつつかつて一ぺんに傾き、もう沈みかけました。月のあかりはどこかぼんやりありましたが、霧が非常に深かつたのです。ところがボートは左舷の方半分はもうだめになつてゐましたから、とてもみんなは乘り切れないのです。もうそのうちにも船は沈みますし、私は必死となつて、どうか小さな人たちを乘せて下さいと叫びました。近くの人たちはすぐみちを開いて、そして子供たちのために祈つて呉れました。けれどもそこからボートまでのところには、まだまだ小さな子どもたちや親たちやなんか居て、とても押しのける勇氣がなかつたのです。
それでもわたくしはどうしてもこの方たちをお助けするのが私の義務だと思ひましたから、前にゐる子供らを押しのけようとしました。けれどもまた、そんなにして助けてあげるよりはこのまま神のお前にみんなで行く方が、ほんたうにこの方たちの幸福だとも思ひました。
それから、またその神にそむく罪はわたくしひとりでしよつてぜひとも助けてあげようと思ひました。
けれども、どうしても見てゐるとそれができないのでした。
子どもらばかりボートの中へはなしてやつて、お母さんが狂氣のやうにキスを送り、お父さんがかなしいのをぢつとこらへてまつすぐに立つてゐるなど、とてももう腸もちぎれるやうでした。そのうち船はもうずんずん沈みますから、私たちはかたまつて、もうすつかり覺悟して、この人たち二人を抱いて、浮べるだけは浮ばうと船の沈むのを待つてゐました。
誰が投げたかライフヴイが一つ飛んで來ました。けれども滑つてずうつと向うへ行つてしまひました。
私は一生けん命で甲板の格子になつたところをはなして、三人それにしつかりとりつきました。どこからともなく讚美歌の聲があがりました。たちまちみんなはいろいろな國語で一ぺんにそれを歌ひました。
そのとき俄かに大きな音がして私たちは水に落ち、もう渦に入つたと思ひながらしつかりこの人たちをだいてそれからぼうつとしたと思つたらもうここへ來てゐたのです。
この方たちのお母さんは一昨年歿くなられました。ええ、ボートはきつと助かつたにちがひありません。何せよほど熟練な水夫たちが漕いで、すばやく船からはなれてゐましたから。」
そこから小さな嘆息やいのりの聲が聞え、ジヨバンニもカムパネルラもいままで忘れてゐたいろいろのことをぼんやり思ひ出して眼が熱くなりました。
(ああ、その大きな海はパシフイツクといふのではなかつたらうか。
その氷山の流れる北のはての海で、小さな船に乘つて、風や凍りつく潮水や、烈しい寒さとたたかつて、たれかが一生けんめいはたらいてゐる。ぼくはそのひとにほんたうに氣の毒で、そしてすまないやうな氣がする。ぼくはそのひとのさいはひのためにいつたいどうしたらいいのだらう。)
ジヨバンニは首を垂れて、すつかりふさぎ込んでしまひました。
「なにがしあはせかわからないです。ほんたうにどんなつらいことでもそれがただしいみちを進む中でのできごとなら、峠の上りも下りもみんなほんたうの幸福に近づく一あしづつですから。」
燈臺守がなぐさめてゐました。
「ああさうです。ただいちばんのさいはひに至るためにいろいろのかなしみもみんな、おぼしめしです。」
青年が祈るやうにさう答へました。
そしてあの姉弟はもうつかれてめいめいにぐつたり席によりかかつて睡つてゐました。さつきのあのはだしだつた足にはいつか白い柔らかな靴をはいてゐたのです。
ごとごとごとごと汽車はきらびやかな燐光の川の岸を進みました。向うの方の窓を見ると、野原はまるで幻燈のやうでした。百も千もの大小さまざまの三角標、その大きなものの上には赤い點々をうつた測量旗も見え、野原のはてはそれがいちめん、たくさんたくさん集つてぼうつと青白い霧のやう、そこからか、またはもつと向うからか、ときどきさまざまの形のぼんやりした狼煙のやうなものが、かはるがはるきれいな桔梗いろのそらにうちあげられるのでした。じつにそのすきとほつた綺麗な風は、ばらの匂でいつぱいでした。
「いかがですか。かういふ苹果はおはじめてでせう。」
向うの席の燈臺看守が、いつか黄金と紅でうつくしくいろどられた大きな苹果を落さないやうに、兩手で膝の上にかかえてゐました。
「おや、どつから來たのですか。立派ですね。ここらではこんな苹果ができるのですか。」青年はほんたうにびつくりしたらしく、燈臺看守の兩手にかかえられた一もりの苹果を、眼を細くしたり首をまげたりしながら、われを忘れてながめてゐました。
「いや、まあおとり下さい。どうか、まあおとり下さい。」
青年は一つとつてジヨバンニたちの方をちよつと見ました。
「さあ、向うの坊ちやんがた。いかがですか。おとり下さい。」
ジヨバンニは坊ちやんと云はれたので、すこししやくにさはつてだまつてゐましたが、カムパネルラは「ありがたう。」と云ひました。
すると青年は自分でとつて一つづつ二人に送つてよこしましたので、ジヨバンニも立つてありがたうと云ひました。
燈臺看守はやつと兩腕があいたので、こんどは自分で一つづつ睡つてゐる姉弟の膝にそつと置きました。
「どうもありがたう。どこでできるのですか、こんな立派な苹果は。」青年はつくづく見ながら云ひました。
「この邊ではもちろん農業はいたしますけれども、大ていひとりでにいいものができるやうな約束になつて居ります。
農業だつてそんなに骨は折れはしません。たいてい自分の望む種子さへ播けばひとりでにどんどんできます。米だつてパシフイツク邊のやうに殼もないし、十倍も大きくて匂もいいのです。
けれどもあなたがたのこれからいらつしやる方なら、農業はもうありません。苹果だつてお菓子だつてかすが少しもありませんから、みんなそのひとそのひとによつてちがつた、わづかのいいかをりになつて毛あなからちらけてしまふのです。」
にはかに男の子がぱつちり眼をあいて云ひました。
「ああぼく、いまお母さんの夢をみてゐたよ。お母さんがね、立派な戸棚や本のあるとこに居てね、ぼくの方を見て手をだしてにこにこにこにこわらつたよ。ぼく、おつかさん、りんごをひろつてきてあげませうか。と云つたら眼がさめちやつた。ああここ、さつきの汽車のなかだねえ。」
「その苹果がそこにあります。このをぢさんにいただいたのですよ。」青年が云ひました。
「ありがたうをぢさん。おや、かほるねえさんまだねてるねえ、ぼくおこしてやらう。ねえさん。ごらん、りんごをもらつたよ。おきてごらん。」
姉はわらつて眼をさまし、まぶしさうに兩手を眼にあてて、それから苹果を見ました。
男の子はまるでパイを喰べるやうに、もうそれを喰べてゐました。また折角剥いたそのきれいな皮も、くるくるコルク拔きのやうな形になつて床へ落ちるまでの間には、すうつと灰いろに光つて蒸發してしまふのでした。
二人はりんごを大切にポケツトにしまひました。
「いまどの邊あるいてるの
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