神《かみ》さまです」
「だからそうじゃありませんか。わたくしはあなた方がいまにそのほんとうの神《かみ》さまの前に、わたくしたちとお会いになることを祈《いの》ります」青年はつつましく両手《りょうて》を組みました。
 女の子もちょうどその通りにしました。みんなほんとうに別《わか》れが惜《お》しそうで、その顔いろも少し青ざめて見えました。ジョバンニはあぶなく声をあげて泣《な》き出そうとしました。
「さあもうしたくはいいんですか。じきサウザンクロスですから」
 ああそのときでした。見えない天の川のずうっと川下に青や橙《だいだい》や、もうあらゆる光でちりばめられた十字架《じゅうじか》が、まるで一本の木というふうに川の中から立ってかがやき、その上には青じろい雲がまるい環《わ》になって後光のようにかかっているのでした。汽車の中がまるでざわざわしました。みんなあの北の十字のときのようにまっすぐに立ってお祈《いの》りをはじめました。あっちにもこっちにも子供が瓜《うり》に飛《と》びついたときのようなよろこびの声や、なんとも言いようない深《ふか》いつつましいためいきの音ばかりきこえました。そしてだんだん十字架《じゅうじか》は窓《まど》の正面《しょうめん》になり、あの苹果《りんご》の肉《にく》のような青じろい環《わ》の雲も、ゆるやかにゆるやかに繞《めぐ》っているのが見えました。
「ハレルヤ、ハレルヤ」明るくたのしくみんなの声はひびき、みんなはそのそらの遠くから、つめたいそらの遠くから、すきとおったなんとも言《い》えずさわやかなラッパの声をききました。そしてたくさんのシグナルや電燈《でんとう》の灯《あかり》のなかを汽車はだんだんゆるやかになり、とうとう十字架《じゅうじか》のちょうどま向《む》かいに行ってすっかりとまりました。
「さあ、おりるんですよ」青年は男の子の手をひき姉《あね》は互《たが》いにえりや肩《かた》をなおしてやってだんだん向《む》こうの出口の方へ歩き出しました。
「じゃさよなら」女の子がふりかえって二人に言《い》いました。
「さよなら」ジョバンニはまるで泣《な》き出したいのをこらえておこったようにぶっきらぼうに言《い》いました。
 女の子はいかにもつらそうに眼《め》を大きくして、も一|度《ど》こっちをふりかえって、それからあとはもうだまって出て行ってしまいました。汽車の中はもう半分以上《はんぶんいじょう》も空《す》いてしまいにわかにがらんとして、さびしくなり風がいっぱいに吹《ふ》き込《こ》みました。
 そして見ているとみんなはつつましく列《れつ》を組んで、あの十字架《じゅうじか》の前の天の川のなぎさにひざまずいていました。そしてその見えない天の川の水をわたって、ひとりのこうごうしい白いきものの人が手をのばしてこっちへ来るのを二人は見ました。けれどもそのときはもう硝子《ガラス》の呼《よ》び子は鳴らされ汽車はうごきだし、と思ううちに銀《ぎん》いろの霧《きり》が川下の方から、すうっと流《なが》れて来て、もうそっちは何も見えなくなりました。ただたくさんのくるみの木が葉《は》をさんさんと光らしてその霧《きり》の中に立ち、黄金《きん》の円光をもった電気栗鼠《でんきりす》が可愛《かわい》い顔をその中からちらちらのぞいているだけでした。
 そのとき、すうっと霧《きり》がはれかかりました。どこかへ行く街道《かいどう》らしく小さな電燈《でんとう》の一列《いちれつ》についた通りがありました。それはしばらく線路《せんろ》に沿《そ》って進《すす》んでいました。そして二人《ふたり》がそのあかしの前を通って行くときは、その小さな豆いろの火はちょうどあいさつでもするようにぽかっと消《き》え、二人《ふたり》が過ぎて行くときまた点《つ》くのでした。
 ふりかえって見ると、さっきの十字架《じゅうじか》はすっかり小さくなってしまい、ほんとうにもうそのまま胸《むね》にもつるされそうになり、さっきの女の子や青年たちがその前の白い渚《なぎさ》にまだひざまずいているのか、それともどこか方角《ほうがく》もわからないその天上へ行ったのか、ぼんやりして見分けられませんでした。
 ジョバンニは、ああ、と深《ふか》く息《いき》しました。
「カムパネルラ、また僕《ぼく》たち二人《ふたり》きりになったねえ、どこまでもどこまでもいっしょに行こう。僕《ぼく》はもう、あのさそりのように、ほんとうにみんなの幸《さいわい》のためならば僕《ぼく》のからだなんか百ぺん灼《や》いてもかまわない」
「うん。僕《ぼく》だってそうだ」カムパネルラの眼《め》にはきれいな涙《なみだ》がうかんでいました。
「けれどもほんとうのさいわいはいったいなんだろう」
 ジョバンニが言《い》いました。
「僕《ぼく》わからない」カムパネルラがぼんやり言《い》いました。
「僕《ぼく》たちしっかりやろうねえ」ジョバンニが胸《むね》いっぱい新しい力が湧《わ》くように、ふうと息《いき》をしながら言《い》いました。
「あ、あすこ石炭袋《せきたんぶくろ》だよ。そらの孔《あな》だよ」カムパネルラが少しそっちを避《さ》けるようにしながら天の川のひととこを指《ゆび》さしました。
 ジョバンニはそっちを見て、まるでぎくっとしてしまいました。天の川の一とこに大きなまっくらな孔《あな》が、どおんとあいているのです。その底《そこ》がどれほど深《ふか》いか、その奥《おく》に何があるか、いくら眼《め》をこすってのぞいてもなんにも見えず、ただ眼《め》がしんしんと痛《いた》むのでした。ジョバンニが言《い》いました。
「僕《ぼく》もうあんな大きな暗《やみ》の中だってこわくない。きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕《ぼく》たちいっしょに進《すす》んで行こう」
「ああきっと行くよ。ああ、あすこの野原はなんてきれいだろう。みんな集《あつ》まってるねえ。あすこがほんとうの天上なんだ。あっ、あすこにいるのはぼくのお母さんだよ」
 カムパネルラはにわかに窓《まど》の遠くに見えるきれいな野原を指《さ》して叫《さけ》びました。
 ジョバンニもそっちを見ましたけれども、そこはぼんやり白くけむっているばかり、どうしてもカムパネルラが言《い》ったように思われませんでした。
 なんとも言《い》えずさびしい気がして、ぼんやりそっちを見ていましたら、向《む》こうの河岸《かわぎし》に二本の電信《でんしん》ばしらが、ちょうど両方《りょうほう》から腕《うで》を組んだように赤い腕木《うでぎ》をつらねて立っていました。
「カムパネルラ、僕《ぼく》たちいっしょに行こうねえ」ジョバンニがこう言《い》いながらふりかえって見ましたら、そのいままでカムパネルラのすわっていた席《せき》に、もうカムパネルラの形は見えず、ただ黒いびろうどばかりひかっていました。
 ジョバンニはまるで鉄砲丸《てっぽうだま》のように立ちあがりました。そして誰《だれ》にも聞こえないように窓《まど》の外へからだを乗《の》り出して、力いっぱいはげしく胸《むね》をうって叫《さけ》び、それからもう咽喉《のど》いっぱい泣《な》きだしました。
 もうそこらが一ぺんにまっくらになったように思いました。そのとき、
「おまえはいったい何を泣《な》いているの。ちょっとこっちをごらん」いままでたびたび聞こえた、あのやさしいセロのような声が、ジョバンニのうしろから聞こえました。
 ジョバンニは、はっと思って涙《なみだ》をはらってそっちをふり向《む》きました、さっきまでカムパネルラのすわっていた席《せき》に黒い大きな帽子《ぼうし》をかぶった青白い顔のやせた大人《おとな》が、やさしくわらって大きな一|冊《さつ》の本をもっていました。
「おまえのともだちがどこかへ行ったのだろう。あのひとはね、ほんとうにこんや遠くへ行ったのだ。おまえはもうカムパネルラをさがしてもむだだ」
「ああ、どうしてなんですか。ぼくはカムパネルラといっしょにまっすぐに行こうと言《い》ったんです」
「ああ、そうだ。みんながそう考える。けれどもいっしょに行けない。そしてみんながカムパネルラだ。おまえがあうどんなひとでも、みんな何べんもおまえといっしょに苹果《りんご》をたべたり汽車に乗《の》ったりしたのだ。だからやっぱりおまえはさっき考えたように、あらゆるひとのいちばんの幸福《こうふく》をさがし、みんなといっしょに早くそこに行くがいい、そこでばかりおまえはほんとうにカムパネルラといつまでもいっしょに行けるのだ」
「ああぼくはきっとそうします。ぼくはどうしてそれをもとめたらいいでしょう」
「ああわたくしもそれをもとめている。おまえはおまえの切符《きっぷ》をしっかりもっておいで。そして一しんに勉強《べんきょう》しなけぁいけない。おまえは化学《かがく》をならったろう、水は酸素《さんそ》と水素《すいそ》からできているということを知っている。いまはたれだってそれを疑《うたが》やしない。実験《じっけん》してみるとほんとうにそうなんだから。けれども昔《むかし》はそれを水銀《すいぎん》と塩《しお》でできていると言《い》ったり、水銀《すいぎん》と硫黄《いおう》でできていると言《い》ったりいろいろ議論《ぎろん》したのだ。みんながめいめいじぶんの神《かみ》さまがほんとうの神さまだというだろう、けれどもお互《たが》いほかの神《かみ》さまを信《しん》ずる人たちのしたことでも涙《なみだ》がこぼれるだろう。それからぼくたちの心がいいとかわるいとか議論《ぎろん》するだろう。そして勝負《しょうぶ》がつかないだろう。けれども、もしおまえがほんとうに勉強《べんきょう》して実験《じっけん》でちゃんとほんとうの考えと、うその考えとを分けてしまえば、その実験《じっけん》の方法《ほうほう》さえきまれば、もう信仰《しんこう》も化学《かがく》と同じようになる。けれども、ね、ちょっとこの本をごらん、いいかい、これは地理《ちり》と歴史《れきし》の辞典《じてん》だよ。この本のこの頁《ページ》はね、紀元前《きげんぜん》二千二百年の地理《ちり》と歴史《れきし》が書いてある。よくごらん、紀元前《きげんぜん》二千二百年のことでないよ、紀元前《きげんぜん》二千二百年のころにみんなが考えていた地理《ちり》と歴史《れきし》というものが書いてある。
 だからこの頁《ページ》一つが一|冊《さつ》の地歴《ちれき》の本にあたるんだ。いいかい、そしてこの中に書いてあることは紀元前《きげんぜん》二千二百年ころにはたいてい本当《ほんとう》だ。さがすと証拠《しょうこ》もぞくぞく出ている。けれどもそれが少しどうかなとこう考えだしてごらん、そら、それは次《つぎ》の頁《ページ》だよ。
 紀元前《きげんぜん》一千年。だいぶ、地理《ちり》も歴史《れきし》も変《か》わってるだろう。このときにはこうなのだ。変《へん》な顔をしてはいけない。ぼくたちはぼくたちのからだだって考えだって、天の川だって汽車だって歴史《れきし》だって、ただそう感じているのなんだから、そらごらん、ぼくといっしょにすこしこころもちをしずかにしてごらん。いいか」
 そのひとは指《ゆび》を一本あげてしずかにそれをおろしました。するといきなりジョバンニは自分というものが、じぶんの考えというものが、汽車やその学者《がくしゃ》や天の川や、みんないっしょにぽかっと光って、しいんとなくなって、ぽかっとともってまたなくなって、そしてその一つがぽかっとともると、あらゆる広《ひろ》い世界《せかい》ががらんとひらけ、あらゆる歴史《れきし》がそなわり、すっと消《き》えると、もうがらんとした、ただもうそれっきりになってしまうのを見ました。だんだんそれが早くなって、まもなくすっかりもとのとおりになりました。
「さあいいか。だからおまえの実験《じっけん》は、このきれぎれの考えのはじめから終《お》わりすべてにわたるようでなければいけない。それがむずかしいことなのだ。けれども、もちろんそのときだけのでもいいのだ。ああごらん、あ
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