すこにプレシオスが見える。おまえはあのプレシオスの鎖《くさり》を解《と》かなければならない」
そのときまっくらな地平線《ちへいせん》の向《む》こうから青じろいのろしが、まるでひるまのようにうちあげられ、汽車の中はすっかり明るくなりました。そしてのろしは高くそらにかかって光りつづけました。
「ああマジェランの星雲《せいうん》だ。さあもうきっと僕《ぼく》は僕《ぼく》のために、僕《ぼく》のお母さんのために、カムパネルラのために、みんなのために、ほんとうのほんとうの幸福《こうふく》をさがすぞ」
ジョバンニは唇《くちびる》を噛《か》んで、そのマジェランの星雲《せいうん》をのぞんで立ちました。そのいちばん幸福《こうふく》なそのひとのために!
「さあ、切符《きっぷ》をしっかり持《も》っておいで。お前はもう夢《ゆめ》の鉄道《てつどう》の中でなしにほんとうの世界《せかい》の火やはげしい波《なみ》の中を大股《おおまた》にまっすぐに歩いて行かなければいけない。天の川のなかでたった一つの、ほんとうのその切符《きっぷ》を決《けっ》しておまえはなくしてはいけない」
あのセロのような声がしたと思うとジョバンニは、あの天の川がもうまるで遠く遠くなって風が吹《ふ》き自分はまっすぐに草の丘《おか》に立っているのを見、また遠くからあのブルカニロ博士《はかせ》の足おとのしずかに近づいて来るのをききました。
「ありがとう。私はたいへんいい実験《じっけん》をした。私はこんなしずかな場所《ばしょ》で遠くから私の考えを人に伝《つた》える実験《じっけん》をしたいとさっき考えていた。お前の言《い》った語はみんな私の手帳《てちょう》にとってある。さあ帰っておやすみ。お前は夢《ゆめ》の中で決心《けっしん》したとおりまっすぐに進《すす》んで行くがいい。そしてこれからなんでもいつでも私のとこへ相談《そうだん》においでなさい」
「僕《ぼく》きっとまっすぐに進《すす》みます。きっとほんとうの幸福《こうふく》を求《もと》めます」ジョバンニは力強《ちからづよ》く言《い》いました。
「ああではさよなら。これはさっきの切符《きっぷ》です」
博士《はかせ》は小さく折《お》った緑《みどり》いろの紙をジョバンニのポケットに入れました。そしてもうそのかたちは天気輪《てんきりん》の柱《はしら》の向《む》こうに見えなくなっていました。
ジョバンニはまっすぐに走って丘《おか》をおりました。
そしてポケットがたいへん重《おも》くカチカチ鳴るのに気がつきました。林の中でとまってそれをしらべてみましたら、あの緑《みどり》いろのさっき夢《ゆめ》の中で見たあやしい天の切符《きっぷ》の中に大きな二|枚《まい》の金貨《きんか》が包《つつ》んでありました。
「博士《はかせ》ありがとう、おっかさん。すぐ乳《ちち》をもって行きますよ」
ジョバンニは叫《さけ》んでまた走りはじめました。何かいろいろのものが一ぺんにジョバンニの胸《むね》に集《あつ》まってなんとも言《い》えずかなしいような新しいような気がするのでした。
琴《こと》の星がずうっと西の方へ移《うつ》ってそしてまた夢《ゆめ》のように足をのばしていました。
ジョバンニは眼《め》をひらきました。もとの丘《おか》の草の中につかれてねむっていたのでした。胸《むね》はなんだかおかしく熱《ほて》り、頬《ほお》にはつめたい涙《なみだ》がながれていました。
ジョバンニはばねのようにはね起《お》きました。町はすっかりさっきの通りに下でたくさんの灯《あかり》を綴《つづ》ってはいましたが、その光はなんだかさっきよりは熱《ねっ》したというふうでした。
そしてたったいま夢《ゆめ》であるいた天の川もやっぱりさっきの通りに白くぼんやりかかり、まっ黒な南の地平線《ちへいせん》の上ではことにけむったようになって、その右には蠍座《さそりざ》の赤い星がうつくしくきらめき、そらぜんたいの位置《いち》はそんなに変《か》わってもいないようでした。
ジョバンニはいっさんに丘《おか》を走って下りました。まだ夕ごはんをたべないで待《ま》っているお母さんのことが胸《むね》いっぱいに思いだされたのです。どんどん黒い松《まつ》の林の中を通って、それからほの白い牧場《ぼくじょう》の柵《さく》をまわって、さっきの入口から暗《くら》い牛舎《ぎゅうしゃ》の前へまた来ました。そこには誰《だれ》かがいま帰ったらしく、さっきなかった一つの車が何かの樽《たる》を二つ載《の》っけて置《お》いてありました。
「今晩《こんばん》は」ジョバンニは叫《さけ》びました。
「はい」白い太いずぼんをはいた人がすぐ出て来て立ちました。
「なんのご用ですか」
「今日|牛乳《ぎゅうにゅう》がぼくのところへ来なかったのですが」
「あ、済《す》みませんでした」その人はすぐ奥《おく》へ行って一本の牛乳瓶《ぎゅうにゅうびん》をもって来てジョバンニに渡《わた》しながら、また言《い》いました。
「ほんとうに済《す》みませんでした。今日はひるすぎ、うっかりしてこうしの柵《さく》をあけておいたもんですから、大将《たいしょう》さっそく親牛《おやうし》のところへ行って半分《はんぶん》ばかりのんでしまいましてね……」その人はわらいました。
「そうですか。ではいただいて行きます」
「ええ、どうも済《す》みませんでした」
「いいえ」
ジョバンニはまだ熱《あつ》い乳《ちち》の瓶《びん》を両方《りょうほう》のてのひらで包《つつ》むようにもって牧場《ぼくじょう》の柵《さく》を出ました。
そしてしばらく木のある町を通って大通りへ出てまたしばらく行きますとみちは十文字になって、その右手の方、通りのはずれにさっきカムパネルラたちのあかりを流《なが》しに行った川へかかった大きな橋《はし》のやぐらが夜のそらにぼんやり立っていました。
ところがその十字になった町かどや店の前に女たちが七、八人ぐらいずつ集《あつ》まって橋《はし》の方を見ながら何かひそひそ談《はな》しているのです。それから橋《はし》の上にもいろいろなあかりがいっぱいなのでした。
ジョバンニはなぜかさあっと胸《むね》が冷《つめ》たくなったように思いました。そしていきなり近くの人たちへ、
「何かあったんですか」と叫《さけ》ぶようにききました。
「こどもが水へ落《お》ちたんですよ」一人《ひとり》が言《い》いますと、その人たちは一斉《いっせい》にジョバンニの方を見ました。ジョバンニはまるで夢中《むちゅう》で橋《はし》の方へ走りました。橋《はし》の上は人でいっぱいで河《かわ》が見えませんでした。白い服《ふく》を着《き》た巡査《じゅんさ》も出ていました。
ジョバンニは橋《はし》の袂《たもと》から飛《と》ぶように下の広い河原《かわら》へおりました。
その河原《かわら》の水ぎわに沿《そ》ってたくさんのあかりがせわしくのぼったり下ったりしていました。向《む》こう岸《ぎし》の暗《くら》いどてにも火が七つ八つうごいていました。そのまん中をもう烏瓜《からすうり》のあかりもない川が、わずかに音をたてて灰《はい》いろにしずかに流《なが》れていたのでした。
河原《かわら》のいちばん下流《かりゅう》の方へ洲《す》のようになって出たところに人の集《あつ》まりがくっきりまっ黒に立っていました。ジョバンニはどんどんそっちへ走りました。するとジョバンニはいきなりさっきカムパネルラといっしょだったマルソに会《あ》いました。マルソがジョバンニに走り寄《よ》って言《い》いました。
「ジョバンニ、カムパネルラが川へはいったよ」
「どうして、いつ」
「ザネリがね、舟《ふね》の上から烏《からす》うりのあかりを水の流《なが》れる方へ押《お》してやろうとしたんだ。そのとき舟《ふね》がゆれたもんだから水へ落《お》っこったろう。するとカムパネルラがすぐ飛《と》びこんだんだ。そしてザネリを舟《ふね》の方へ押《お》してよこした。ザネリはカトウにつかまった。けれどもあとカムパネルラが見えないんだ」
「みんなさがしてるんだろう」
「ああ、すぐみんな来た。カムパネルラのお父さんも来た。けれども見つからないんだ。ザネリはうちへ連《つ》れられてった」
ジョバンニはみんなのいるそっちの方へ行きました。そこに学生たちや町の人たちに囲《かこ》まれて青じろいとがったあごをしたカムパネルラのお父さんが黒い服《ふく》を着《き》てまっすぐに立って左手に時計《とけい》を持《も》ってじっと見つめていたのです。
みんなもじっと河《かわ》を見ていました。誰《だれ》も一言《ひとこと》も物《もの》を言《い》う人もありませんでした。ジョバンニはわくわくわくわく足がふるえました。魚をとるときのアセチレンランプがたくさんせわしく行ったり来たりして、黒い川の水はちらちら小さな波《なみ》をたてて流《なが》れているのが見えるのでした。
下流《かりゅう》の方の川はばいっぱい銀河《ぎんが》が巨《おお》きく写《うつ》って、まるで水のないそのままのそらのように見えました。
ジョバンニは、そのカムパネルラはもうあの銀河《ぎんが》のはずれにしかいないというような気がしてしかたなかったのです。
けれどもみんなはまだ、どこかの波《なみ》の間から、
「ぼくずいぶん泳《およ》いだぞ」と言いながらカムパネルラが出て来るか、あるいはカムパネルラがどこかの人の知らない洲《す》にでも着《つ》いて立っていて誰《だれ》かの来るのを待《ま》っているかというような気がしてしかたないらしいのでした。けれどもにわかにカムパネルラのお父さんがきっぱり言《い》いました。
「もう駄目《だめ》です。落《お》ちてから四十五分たちましたから」
ジョバンニは思わずかけよって博士《はかせ》の前に立って、ぼくはカムパネルラの行った方を知っています、ぼくはカムパネルラといっしょに歩いていたのです、と言《い》おうとしましたが、もうのどがつまってなんとも言《い》えませんでした。すると博士《はかせ》はジョバンニがあいさつに来たとでも思ったものですか、しばらくしげしげジョバンニを見ていましたが、
「あなたはジョバンニさんでしたね。どうも今晩《こんばん》はありがとう」とていねいに言《い》いました。
ジョバンニは何も言《い》えずにただおじぎをしました。
「あなたのお父さんはもう帰っていますか」博士《はかせ》は堅《かた》く時計《とけい》を握《にぎ》ったまま、またききました。
「いいえ」ジョバンニはかすかに頭をふりました。
「どうしたのかなあ、ぼくには一昨日《おととい》たいへん元気な便《たよ》りがあったんだが。今日《きょう》あたりもう着《つ》くころなんだが。船《ふね》が遅《おく》れたんだな。ジョバンニさん。あした放課後《ほうかご》みなさんとうちへ遊《あそ》びに来てくださいね」
そう言《い》いながら博士《はかせ》はまた、川下の銀河《ぎんが》のいっぱいにうつった方へじっと眼《め》を送《おく》りました。
ジョバンニはもういろいろなことで胸《むね》がいっぱいで、なんにも言《い》えずに博士《はかせ》の前をはなれて、早くお母さんに牛乳《ぎゅうにゅう》を持《も》って行って、お父さんの帰ることを知らせようと思うと、もういちもくさんに河原《かわら》を街《まち》の方へ走りました。
底本:「銀河鉄道の夜」角川文庫、角川書店
1969(昭和44)年7月20日改版初版発行
1987(昭和62)年3月30日改版50版
入力:幸野素子
校正:土屋隆
2005年8月18日作成
青空文庫作成ファイル:
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