バンニはにわかになんとも言《い》えずかなしい気がして思わず、
「カムパネルラ、ここからはねおりて遊《あそ》んで行こうよ」とこわい顔をして言《い》おうとしたくらいでした。
ところがそのときジョバンニは川下の遠くの方に不思議《ふしぎ》なものを見ました。それはたしかになにか黒いつるつるした細長《ほそなが》いもので、あの見えない天の川の水の上に飛《と》び出してちょっと弓《ゆみ》のようなかたちに進《すす》んで、また水の中にかくれたようでした。おかしいと思ってまたよく気をつけていましたら、こんどはずっと近くでまたそんなことがあったらしいのでした。そのうちもうあっちでもこっちでも、その黒いつるつるした変《へん》なものが水から飛《と》び出して、まるく飛《と》んでまた頭から水へくぐるのがたくさん見えてきました。みんな魚のように川上へのぼるらしいのでした。
「まあ、なんでしょう。たあちゃん。ごらんなさい。まあたくさんだわね。なんでしょうあれ」
睡《ねむ》そうに眼《め》をこすっていた男の子はびっくりしたように立ちあがりました。
「なんだろう」青年も立ちあがりました。
「まあ、おかしな魚だわ、なんでしょうあれ」
「海豚《いるか》です」カムパネルラがそっちを見ながら答えました。
「海豚《いるか》だなんてあたしはじめてだわ。けどここ海じゃないんでしょう」
「いるかは海にいるときまっていない」あの不思議《ふしぎ》な低《ひく》い声がまたどこからかしました。
ほんとうにそのいるかのかたちのおかしいことは、二つのひれをちょうど両手《りょうて》をさげて不動《ふどう》の姿勢《しせい》をとったようなふうにして水の中から飛《と》び出して来て、うやうやしく頭を下にして不動《ふどう》の姿勢《しせい》のまままた水の中へくぐって行くのでした。見えない天の川の水もそのときはゆらゆらと青い焔《ほのお》のように波《なみ》をあげるのでした。
「いるかお魚でしょうか」女の子がカムパネルラにはなしかけました。男の子はぐったりつかれたように席《せき》にもたれて睡《ねむ》っていました。
「いるか、魚じゃありません。くじらと同じようなけだものです」カムパネルラが答えました。
「あなたくじら見たことあって」
「僕《ぼく》あります。くじら、頭と黒いしっぽだけ見えます。潮《しお》を吹《ふ》くとちょうど本にあるようになります」
「くじらなら大きいわねえ」
「くじら大きいです。子供《こども》だっているかぐらいあります」
「そうよ、あたしアラビアンナイトで見たわ」姉《あね》は細《ほそ》い銀《ぎん》いろの指輪《ゆびわ》をいじりながらおもしろそうにはなししていました。
(カムパネルラ、僕《ぼく》もう行っちまうぞ。僕《ぼく》なんか鯨《くじら》だって見たことないや)
ジョバンニはまるでたまらないほどいらいらしながら、それでも堅《かた》く、唇《くちびる》を噛《か》んでこらえて窓《まど》の外を見ていました。その窓《まど》の外には海豚《いるか》のかたちももう見えなくなって川は二つにわかれました。そのまっくらな島《しま》のまん中に高い高いやぐらが一つ組まれて、その上に一人の寛《ゆる》い服《ふく》を着《き》て赤い帽子《ぼうし》をかぶった男が立っていました。そして両手《りょうて》に赤と青の旗《はた》をもってそらを見上げて信号《しんごう》しているのでした。
ジョバンニが見ている間その人はしきりに赤い旗《はた》をふっていましたが、にわかに赤旗《あかはた》をおろしてうしろにかくすようにし、青い旗《はた》を高く高くあげてまるでオーケストラの指揮者《しきしゃ》のようにはげしく振《ふ》りました。すると空中にざあっと雨のような音がして、何かまっくらなものが、いくかたまりもいくかたまりも鉄砲丸《てっぽうだま》のように川の向《む》こうの方へ飛《と》んで行くのでした。ジョバンニは思わず窓《まど》からからだを半分出して、そっちを見あげました。美《うつく》しい美《うつく》しい桔梗《ききょう》いろのがらんとした空の下を、実《じつ》に何万《なんまん》という小さな鳥どもが、幾組《いくくみ》も幾組《いくくみ》もめいめいせわしくせわしく鳴いて通って行くのでした。
「鳥が飛《と》んで行くな」ジョバンニが窓《まど》の外で言いました。
「どら」カムパネルラもそらを見ました。
そのときあのやぐらの上のゆるい服《ふく》の男はにわかに赤い旗《はた》をあげて狂気《きょうき》のようにふりうごかしました。するとぴたっと鳥の群《む》れは通らなくなり、それと同時にぴしゃあんというつぶれたような音が川下の方で起《お》こって、それからしばらくしいんとしました。と思ったらあの赤帽《あかぼう》の信号手《しんごうしゅ》がまた青い旗《はた》をふって叫《さけ》んでいたのです。
「いまこそわたれわたり鳥、いまこそわたれわたり鳥」その声もはっきり聞こえました。
それといっしょにまた幾万《いくまん》という鳥の群《む》れがそらをまっすぐにかけたのです。二人《ふたり》の顔を出しているまん中の窓《まど》からあの女の子が顔を出して美《うつく》しい頬《ほお》をかがやかせながらそらを仰《あお》ぎました。
「まあ、この鳥、たくさんですわねえ、あらまあそらのきれいなこと」女の子はジョバンニにはなしかけましたけれどもジョバンニは生意気《なまいき》な、いやだいと思いながら、だまって口をむすんでそらを見あげていました。女の子は小さくほっと息《いき》をして、だまって席《せき》へ戻《もど》りました。カムパネルラがきのどくそうに窓《まど》から顔を引っ込《こ》めて地図を見ていました。
「あの人鳥へ教えてるんでしょうか」女の子がそっとカムパネルラにたずねました。
「わたり鳥へ信号《しんごう》してるんです。きっとどこからかのろしがあがるためでしょう」
カムパネルラが少しおぼつかなそうに答えました。そして車の中はしいんとなりました。ジョバンニはもう頭を引っ込《こ》めたかったのですけれども明るいとこへ顔を出すのがつらかったので、だまってこらえてそのまま立って口笛《くちぶえ》を吹《ふ》いていました。
(どうして僕《ぼく》はこんなにかなしいのだろう。僕《ぼく》はもっとこころもちをきれいに大きくもたなければいけない。あすこの岸《きし》のずうっと向《む》こうにまるでけむりのような小さな青い火が見える。あれはほんとうにしずかでつめたい。僕《ぼく》はあれをよく見てこころもちをしずめるんだ)
ジョバンニは熱《ほて》って痛《いた》いあたまを両手《りょうて》で押《おさ》えるようにして、そっちの方を見ました。
(ああほんとうにどこまでもどこまでも僕《ぼく》といっしょに行くひとはないだろうか。カムパネルラだってあんな女の子とおもしろそうに談《はな》しているし僕《ぼく》はほんとうにつらいなあ)
ジョバンニの眼《め》はまた泪《なみだ》でいっぱいになり、天の川もまるで遠くへ行《い》ったようにぼんやり白く見えるだけでした。
そのとき汽車はだんだん川からはなれて崖《がけ》の上を通るようになりました。向《む》こう岸《ぎし》もまた黒いいろの崖《がけ》が川の岸《きし》を下流《かりゅう》に下るにしたがって、だんだん高くなっていくのでした。そしてちらっと大きなとうもろこしの木を見ました。その葉《は》はぐるぐるに縮《ちぢ》れ葉《は》の下にはもう美しい緑《みどり》いろの大きな苞《ほう》が赤い毛を吐《は》いて真珠《しんじゅ》のような実《み》もちらっと見えたのでした。それはだんだん数を増《ま》してきて、もういまは列《れつ》のように崖《がけ》と線路《せんろ》との間にならび、思わずジョバンニが窓《まど》から顔を引っ込《こ》めて向《む》こう側《がわ》の窓《まど》を見ましたときは、美《うつく》しいそらの野原の地平線《ちへいせん》のはてまで、その大きなとうもろこしの木がほとんどいちめんに植《う》えられて、さやさや風にゆらぎ、その立派《りっぱ》なちぢれた葉《は》のさきからは、まるでひるの間にいっぱい日光を吸《す》った金剛石《こんごうせき》のように露《つゆ》がいっぱいについて、赤や緑《みどり》やきらきら燃《も》えて光っているのでした。カムパネルラが、
「あれとうもろこしだねえ」とジョバンニに言《い》いましたけれども、ジョバンニはどうしても気持《きも》ちがなおりませんでしたから、ただぶっきらぼうに野原を見たまま、
「そうだろう」と答えました。
そのとき汽車はだんだんしずかになって、いくつかのシグナルとてんてつ器《き》の灯《あかり》を過ぎ、小さな停車場《ていしゃば》にとまりました。
その正面《しょうめん》の青じろい時計《とけい》はかっきり第二時《だいにじ》を示《しめ》し、風もなくなり汽車もうごかず、しずかなしずかな野原のなかにその振《ふ》り子《こ》はカチッカチッと正しく時を刻《きざ》んでいくのでした。
そしてまったくその振《ふ》り子《こ》の音のたえまを遠くの遠くの野原のはてから、かすかなかすかな旋律《せんりつ》が糸のように流《なが》れて来るのでした。
「新世界交響楽《しんせかいこうきょうがく》だわ」向《む》こうの席《せき》の姉《あね》がひとりごとのようにこっちを見ながらそっと言《い》いました。
全《まった》くもう車の中ではあの黒服《くろふく》の丈高《たけたか》い青年も誰《だれ》もみんなやさしい夢《ゆめ》を見ているのでした。
(こんなしずかないいとこで僕《ぼく》はどうしてもっと愉快《ゆかい》になれないだろう。どうしてこんなにひとりさびしいのだろう。けれどもカムパネルラなんかあんまりひどい、僕《ぼく》といっしょに汽車に乗《の》っていながら、まるであんな女の子とばかり談《はな》しているんだもの。僕《ぼく》はほんとうにつらい)
ジョバンニはまた手で顔を半分《はんぶん》かくすようにして向《む》こうの窓《まど》のそとを見つめていました。
すきとおった硝子《ガラス》のような笛《ふえ》が鳴って汽車はしずかに動きだし、カムパネルラもさびしそうに星めぐりの口笛《くちぶえ》を吹《ふ》きました。
「ええ、ええ、もうこの辺《へん》はひどい高原ですから」
うしろの方で誰《だれ》かとしよりらしい人の、いま眼《め》がさめたというふうではきはき談《はな》している声がしました。
「とうもろこしだって棒《ぼう》で二尺も孔《あな》をあけておいてそこへ播《ま》かないとはえないんです」
「そうですか。川まではよほどありましょうかねえ」
「ええ、ええ、河《かわ》までは二千|尺《じゃく》から六千|尺《じゃく》あります。もうまるでひどい峡谷《きょうこく》になっているんです」
そうそうここはコロラドの高原じゃなかったろうか、ジョバンニは思わずそう思いました。
あの姉《あね》は弟を自分の胸《むね》によりかからせて睡《ねむ》らせながら黒い瞳《ひとみ》をうっとりと遠くへ投《な》げて何を見るでもなしに考え込《こ》んでいるのでしたし、カムパネルラはまださびしそうにひとり口笛《くちぶえ》を吹《ふ》き、男の子はまるで絹《きぬ》で包《つつ》んだ苹果《りんご》のような顔いろをしてジョバンニの見る方を見ているのでした。
突然《とつぜん》とうもろこしがなくなって巨《おお》きな黒い野原《のはら》がいっぱいにひらけました。
新世界交響楽《しんせかいこうきょうがく》はいよいよはっきり地平線《ちへいせん》のはてから湧《わ》き、そのまっ黒な野原《のはら》のなかを一人のインデアンが白い鳥の羽根《はね》を頭につけ、たくさんの石を腕《うで》と胸《むね》にかざり、小さな弓《ゆみ》に矢《や》をつがえていちもくさんに汽車を追《お》って来るのでした。
「あら、インデアンですよ。インデアンですよ。おねえさまごらんなさい」
黒服《くろふく》の青年も眼《め》をさましました。
ジョバンニもカムパネルラも立ちあがりました。
「走って来るわ、あら、走って来るわ。追《お》いかけているんでしょう」
「いいえ、汽車を追《お》ってるんじゃないんですよ。猟《
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