いたのです。ところがちょうど十二日目、今日か昨日《きのう》のあたりです、船が氷山《ひょうざん》にぶっつかって一ぺんに傾《かたむ》きもう沈《しず》みかけました。月のあかりはどこかぼんやりありましたが、霧《きり》が非常《ひじょう》に深《ふか》かったのです。ところがボートは左舷《さげん》の方|半分《はんぶん》はもうだめになっていましたから、とてもみんなは乗《の》り切らないのです。もうそのうちにも船は沈《しず》みますし、私は必死《ひっし》となって、どうか小さな人たちを乗《の》せてくださいと叫《さけ》びました。近くの人たちはすぐみちを開いて、そして子供たちのために祈《いの》ってくれました。けれどもそこからボートまでのところには、まだまだ小さな子どもたちや親たちやなんかいて、とても押《お》しのける勇気《ゆうき》がなかったのです。それでもわたくしはどうしてもこの方たちをお助《たす》けするのが私の義務《ぎむ》だと思いましたから前にいる子供らを押《お》しのけようとしました。けれどもまた、そんなにして助《たす》けてあげるよりはこのまま神《かみ》の御前《みまえ》にみんなで行く方が、ほんとうにこの方たちの幸福《こうふく》だとも思いました。それからまた、その神《かみ》にそむく罪《つみ》はわたくしひとりでしょってぜひとも助《たす》けてあげようと思いました。けれども、どうしても見ているとそれができないのでした。子どもらばかりのボートの中へはなしてやって、お母さんが狂気《きょうき》のようにキスを送《おく》りお父さんがかなしいのをじっとこらえてまっすぐに立っているなど、とてももう腸《はらわた》もちぎれるようでした。そのうち船はもうずんずん沈《しず》みますから、私たちはかたまって、もうすっかり覚悟《かくご》して、この人たち二人を抱《だ》いて、浮《う》かべるだけは浮《う》かぼうと船の沈《しず》むのを待《ま》っていました。誰《だれ》が投《な》げたかライフヴイが一つ飛《と》んで来ましたけれどもすべってずうっと向《む》こうへ行ってしまいました。私は一生けん命《めい》で甲板《かんぱん》の格子《こうし》になったとこをはなして、三人それにしっかりとりつきました。どこからともなく三〇六番の声があがりました。たちまちみんなはいろいろな国語で一ぺんにそれをうたいました。そのときにわかに大きな音がして私たちは水に落《お》ち、もう渦《うず》にはいったと思いながらしっかりこの人たちをだいて、それからぼうっとしたと思ったらもうここへ来ていたのです。この方たちのお母さんは一|昨年《さくねん》没《な》くなられました。ええ、ボートはきっと助《たす》かったにちがいありません、なにせよほど熟練《じゅくれん》な水夫《すいふ》たちが漕《こ》いで、すばやく船からはなれていましたから」
 そこらから小さな嘆息《たんそく》やいのりの声が聞こえジョバンニもカムパネルラもいままで忘《わす》れていたいろいろのことをぼんやり思い出して眼《め》が熱《あつ》くなりました。
(ああ、その大きな海はパシフィックというのではなかったろうか。その氷山《ひょうざん》の流《なが》れる北のはての海で、小さな船に乗《の》って、風や凍《こお》りつく潮水《しおみず》や、はげしい寒《さむ》さとたたかって、たれかが一生けんめいはたらいている。ぼくはそのひとにほんとうにきのどくでそしてすまないような気がする。ぼくはそのひとのさいわいのためにいったいどうしたらいいのだろう)
 ジョバンニは首《くび》をたれて、すっかりふさぎ込《こ》んでしまいました。
「なにがしあわせかわからないです。ほんとうにどんなつらいことでもそれがただしいみちを進《すす》む中でのできごとなら、峠《とうげ》の上りも下りもみんなほんとうの幸福《こうふく》に近づく一あしずつですから」
 燈台守《とうだいもり》がなぐさめていました。
「ああそうです。ただいちばんのさいわいに至《いた》るためにいろいろのかなしみもみんなおぼしめしです」
 青年が祈《いの》るようにそう答えました。
 そしてあの姉弟《きょうだい》はもうつかれてめいめいぐったり席《せき》によりかかって睡《ねむ》っていました。さっきのあのはだしだった足にはいつか白い柔《やわ》らかな靴《くつ》をはいていたのです。
 ごとごとごとごと汽車はきらびやかな燐光《りんこう》の川の岸《きし》を進《すす》みました。向《む》こうの方の窓《まど》を見ると、野原はまるで幻燈《げんとう》のようでした。百も千もの大小さまざまの三角標《さんかくひょう》、その大きなものの上には赤い点々をうった測量旗《そくりょうき》も見え、野原《のはら》のはてはそれらがいちめん、たくさんたくさん集《あつ》まってぼおっと青白い霧《きり》のよう、そこからか、またはもっと向《む》こうからか、ときどきさまざまの形のぼんやりした狼煙《のろし》のようなものが、かわるがわるきれいな桔梗《ききょう》いろのそらにうちあげられるのでした。じつにそのすきとおった奇麗《きれい》な風は、ばらのにおいでいっぱいでした。
「いかがですか。こういう苹果《りんご》はおはじめてでしょう」向《む》こうの席《せき》の燈台看守《とうだいかんしゅ》がいつか黄金《きん》と紅《べに》でうつくしくいろどられた大きな苹果《りんご》を落《お》とさないように両手《りょうて》で膝《ひざ》の上にかかえていました。
「おや、どっから来たのですか。立派《りっぱ》ですねえ。ここらではこんな苹果《りんご》ができるのですか」青年はほんとうにびっくりしたらしく、燈台看守《とうだいかんしゅ》の両手《りょうて》にかかえられた一もりの苹果《りんご》を、眼《め》を細《ほそ》くしたり首《くび》をまげたりしながら、われを忘《わす》れてながめていました。
「いや、まあおとりください。どうか、まあおとりください」
 青年は一つとってジョバンニたちの方をちょっと見ました。
「さあ、向《む》こうの坊《ぼっ》ちゃんがた。いかがですか。おとりください」
 ジョバンニは坊《ぼっ》ちゃんといわれたので、すこししゃくにさわってだまっていましたが、カムパネルラは、
「ありがとう」と言《い》いました。
 すると青年は自分でとって一つずつ二人に送《おく》ってよこしましたので、ジョバンニも立って、ありがとうと言《い》いました。
 燈台看守《とうだいかんしゅ》はやっと両腕《りょううで》があいたので、こんどは自分で一つずつ睡《ねむ》っている姉弟《きょうだい》の膝《ひざ》にそっと置《お》きました。
「どうもありがとう。どこでできるのですか。こんな立派《りっぱ》な苹果《りんご》は」
 青年はつくづく見ながら言《い》いました。
「この辺《あたり》ではもちろん農業《のうぎょう》はいたしますけれどもたいていひとりでにいいものができるような約束《やくそく》になっております。農業《のうぎょう》だってそんなにほねはおれはしません。たいてい自分の望《のぞ》む種子《たね》さえ播《ま》けばひとりでにどんどんできます。米だってパシフィック辺《へん》のように殻《から》もないし十|倍《ばい》も大きくてにおいもいいのです。けれどもあなたがたのいらっしゃる方なら農業《のうぎょう》はもうありません。苹果《りんご》だってお菓子《かし》だって、かすが少しもありませんから、みんなそのひとそのひとによってちがった、わずかのいいかおりになって毛あなからちらけてしまうのです」
 にわかに男の子がばっちり眼《め》をあいて言《い》いました。
「ああぼくいまお母《っか》さんの夢《ゆめ》をみていたよ。お母《っか》さんがね、立派《りっぱ》な戸棚《とだな》や本のあるとこにいてね、ぼくの方を見て手をだしてにこにこにこにこわらったよ。ぼく、おっかさん。りんごをひろってきてあげましょうか、と言《い》ったら眼《め》がさめちゃった。ああここ、さっきの汽車のなかだねえ」
「その苹果《りんご》がそこにあります。このおじさんにいただいたのですよ」青年が言《い》いました。
「ありがとうおじさん。おや、かおるねえさんまだねてるねえ、ぼくおこしてやろう。ねえさん。ごらん、りんごをもらったよ。おきてごらん」
 姉《あね》はわらって眼《め》をさまし、まぶしそうに両手《りょうて》を眼《め》にあてて、それから苹果《りんご》を見ました。
 男の子はまるでパイをたべるように、もうそれをたべていました。またせっかくむいたそのきれいな皮《かわ》も、くるくるコルク抜《ぬ》きのような形になって床《ゆか》へ落《お》ちるまでの間にはすうっと、灰《はい》いろに光って蒸発《じょうはつ》してしまうのでした。
 二人《ふたり》はりんごをたいせつにポケットにしまいました。
 川下の向《む》こう岸《ぎし》に青く茂《しげ》った大きな林が見え、その枝《えだ》には熟《じゅく》してまっ赤に光るまるい実《み》がいっぱい、その林のまん中に高い高い三角標《さんかくひょう》が立って、森の中からはオーケストラベルやジロフォンにまじってなんとも言《い》えずきれいな音《ね》いろが、とけるように浸《し》みるように風につれて流《なが》れて来るのでした。
 青年はぞくっとしてからだをふるうようにしました。
 だまってその譜《ふ》を聞いていると、そこらにいちめん黄いろや、うすい緑《みどり》の明るい野原《のはら》か敷物《しきもの》かがひろがり、またまっ白な蝋《ろう》のような露《つゆ》が太陽《たいよう》の面《めん》をかすめて行くように思われました。
「まあ、あの烏《からす》」カムパネルラのとなりの、かおると呼《よ》ばれた女の子が叫《さけ》びました。
「からすでない。みんなかささぎだ」カムパネルラがまた何気なくしかるように叫《さけ》びましたので、ジョバンニはまた思わず笑《わら》い、女の子はきまり悪《わる》そうにしました。まったく河原《かわら》の青じろいあかりの上に、黒い鳥がたくさんたくさんいっぱいに列《れつ》になってとまってじっと川の微光《びこう》を受けているのでした。
「かささぎですねえ、頭のうしろのとこに毛がぴんと延《の》びてますから」青年はとりなすように言《い》いました。
 向《む》こうの青い森の中の三角標《さんかくひょう》はすっかり汽車の正面《しょうめん》に来ました。そのとき汽車のずうっとうしろの方から、あの聞きなれた三〇六番の讃美歌《さんびか》のふしが聞こえてきました。よほどの人数で合唱《がっしょう》しているらしいのでした。青年はさっと顔いろが青ざめ、たって一ぺんそっちへ行きそうにしましたが思いかえしてまたすわりました。かおる子はハンケチを顔にあててしまいました。
 ジョバンニまでなんだか鼻《はな》が変《へん》になりました。けれどもいつともなく誰《だれ》ともなくその歌は歌い出されだんだんはっきり強くなりました。思わずジョバンニもカムパネルラもいっしょにうたいだしたのです。
 そして青い橄欖《かんらん》の森が、見えない天の川の向《む》こうにさめざめと光りながらだんだんうしろの方へ行ってしまい、そこから流《なが》れて来るあやしい楽器《がっき》の音も、もう汽車のひびきや風の音にすりへらされてずうっとかすかになりました。
「あ、孔雀《くじゃく》がいるよ。あ、孔雀《くじゃく》がいるよ」
「あの森|琴《ライラ》の宿《やど》でしょう。あたしきっとあの森の中にむかしの大きなオーケストラの人たちが集《あつ》まっていらっしゃると思うわ、まわりには青い孔雀《くじゃく》やなんかたくさんいると思うわ」
「ええ、たくさんいたわ」女の子がこたえました。
 ジョバンニはその小さく小さくなっていまはもう一つの緑《みどり》いろの貝《かい》ぼたんのように見える森の上にさっさっと青じろく時々光ってその孔雀《くじゃく》がはねをひろげたりとじたりする光の反射《はんしゃ》を見ました。
「そうだ、孔雀《くじゃく》の声だってさっき聞こえた」カムパネルラが女の子に言《い》いました。
「ええ、三十|疋《ぴき》ぐらいはたしかにいたわ」女の子が答えました。
 ジョ
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