きにわしも何かを忘れた感じ、妻もいろいろあるべきことを、思ひ出せない風だったのは、かう〔いふ〕種類の何かにだった。新らしい袴を出し、新らしい足袋と白扇を進めて、それが威容の料とはならず、罪問ふ敵への礼儀とあらば、何たる切ないことであらう。うなじが熱って来た様だ。万一わしが卒倒したら、天下は何と視るだらう、わしは単なる破〔廉恥〕のみか卑懦の称さへ受けねばならぬ〔。〕新聞雑誌はどう書くだらう。浅内或は長沼輩、党の内部の敵でさへ、眉をひそめて煙を吐き、わしの修養を嗤ふだらう。わしは眼《まなこ》を外らさうか。下方《した》へか。それは伏罪だ。側方《よこ》へか。罪を覆ふと看やう。上方《うへ》へか。自ら欺く相だ。たゞもうこのまゝ、ぼうと視力を休めやう。年齢の相違気力の差、たゞもうこのまゝ……窓の向ふは内庭らしい。梅が青々繁ってゐる。
こゝで一詩を賦〔〕し得るならば、たしかにわしに得点がある。それができないことでもない。題はやっぱり述懐だ。仮に想だけ立てゝ見る。中原〔逐〕鹿三十年、恩怨無別星花転、転と来て転句だ……おゝ何といふ向ふの眼、燃え立つやうな憎悪である。わしがこれをも外らしたら、結局恐れてゐる
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