……
……いつか向ふが人の分子を喪くしてゐる。皮を一枚脱いだのだ。小さな天狗のやうでもある。それから豺のトーテムだ。頬が黄いろに光ってゐる。白い後光も出して来た。こゝで折れては何にもならん。断じてその眼を克服せよ、たかゞ二つの節穴だ。もっともたゞ節穴〔よ〕りは、むしろ二つの覗き窓だ。何だかわたしが、たった一人、居ずまゐ正してこゝに座り、やつらの仲間がかはるがはる、その二っつの小窓から、わたしを覗いてゐるやうだ。……あゝ何のことだ 縁起でもない。人の眼などといふものは、それを剔出して見れば、たかゞ小さな暗函だ。奥行二寸もあるんでない。さうかと云ってあ〔ゝ〕いふ眼付き、厭な眼付は打ち消し得ない。こんな眼を遺伝した、父祖はいったい何物だらう。かういふ意志や眼といふものが、一代二代でできはしない。代々糺罪の吏ででもあるか、或は逆に苛政の下、〔喘〕いだ民の末でもあるか。今は対等、正しく今は対等だ。まだ見るか。まだ見るか。尚且つ見るか。対等だ。瞬だけは仕方ない。
尤も向ふはそれをしない。年齢《とし》の相違が争はれん。あゝ今朝いつもの肉汁を、呑むひまもなく来てしまった。前総裁は必ず飲んだ。出て来るときにわしも何かを忘れた感じ、妻もいろいろあるべきことを、思ひ出せない風だったのは、かう〔いふ〕種類の何かにだった。新らしい袴を出し、新らしい足袋と白扇を進めて、それが威容の料とはならず、罪問ふ敵への礼儀とあらば、何たる切ないことであらう。うなじが熱って来た様だ。万一わしが卒倒したら、天下は何と視るだらう、わしは単なる破〔廉恥〕のみか卑懦の称さへ受けねばならぬ〔。〕新聞雑誌はどう書くだらう。浅内或は長沼輩、党の内部の敵でさへ、眉をひそめて煙を吐き、わしの修養を嗤ふだらう。わしは眼《まなこ》を外らさうか。下方《した》へか。それは伏罪だ。側方《よこ》へか。罪を覆ふと看やう。上方《うへ》へか。自ら欺く相だ。たゞもうこのまゝ、ぼうと視力を休めやう。年齢の相違気力の差、たゞもうこのまゝ……窓の向ふは内庭らしい。梅が青々繁ってゐる。
こゝで一詩を賦〔〕し得るならば、たしかにわしに得点がある。それができないことでもない。題はやっぱり述懐だ。仮に想だけ立てゝ見る。中原〔逐〕鹿三十年、恩怨無別星花転、転と来て転句だ……おゝ何といふ向ふの眼、燃え立つやうな憎悪である。わしがこれをも外らしたら、結局恐れてゐる
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