学者アラムハラドの見た着物
宮沢賢治

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)学者《がくしゃ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)十|石《こく》
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 学者《がくしゃ》のアラムハラドはある年十一人の子を教えておりました。
 みんな立派《りっぱ》なうちの子どもらばかりでした。
 王さまのすぐ下の裁判官《さいばんかん》の子もありましたし農商《のうしょう》の大臣《だいじん》の子も居《い》ました。また毎年じぶんの土地から十|石《こく》の香油《こうゆ》さえ穫《と》る長者《ちょうじゃ》のいちばん目の子も居たのです。
 けれども学者のアラムハラドは小さなセララバアドという子がすきでした。この子が何か答えるときは学者のアラムハラドはどこか非常《ひじょう》に遠くの方の凍《こお》ったように寂《しず》かな蒼黒《あおぐろ》い空を感《かん》ずるのでした。それでもアラムハラドはそんなに偉《えら》い学者でしたからえこひいきなどはしませんでした。
 アラムハラドの塾《じゅく》は街《まち》のはずれの楊《やなぎ》の林の中にありました。
 みんなは毎日その石で畳《たた》んだ鼠《ねずみ》いろの床《ゆか》に座《すわ》って古くからの聖歌《せいか》を諳誦《あんしょう》したり兆《ちょう》よりももっと大きな数まで数えたりまた数を互《たがい》に加えたり掛《か》け合せたりするのでした。それからいちばんおしまいには鳥や木や石やいろいろのことを習《なら》うのでした。
 アラムハラドは長い白い着物《きもの》を着て学者のしるしの垂《た》れ布《ぬの》のついた帽子《ぼうし》をかぶり低《ひく》い椅子《いす》に腰掛《こしか》け右手には長い鞭《むち》をもち左手には本を支《ささ》えながらゆっくりと教えて行くのでした。
 そして空気のしめりの丁度《ちょうど》いい日またむずかしい諳誦《あんしょう》でひどくつかれた次《つぎ》の日などはよくアラムハラドはみんなをつれて山へ行きました。
 このおはなしは結局《けっきょく》学者《がくしゃ》のアラムハラドがある日自分の塾《じゅく》でまたある日山の雨の中でちらっと感《かん》じた不思議《ふしぎ》な着物《きもの》についてであります。

     一

 アラムハラドが言いました。
「火が燃《も》えるときは焔《ほのお》をつくる。焔というものはよく見ていると奇体《きたい》なものだ。それはいつでも動《うご》いている。動いているがやっぱり形もきまっている。その色はずいぶんさまざまだ。普通《ふつう》の焚火《たきび》の焔なら橙《だいだい》いろをしている。けれども木によりまたその場処《ばしょ》によっては変《へん》に赤いこともあれば大へん黄いろなこともある。硫黄《いおう》を燃せばちょっと眼《め》のくるっとするような紫《むらさき》いろの焔をあげる。それから銅《どう》を灼《や》くときは孔雀石《くじゃくいし》のような明るい青い火をつくる。こんなにいろはさまざまだがそれはみんなある同じ性質《せいしつ》をもっている。さっき云《い》ったいつでも動いているということもそうだ。それは火というものは軽《かる》いものでいつでも騰《のぼ》ろう騰ろうとしている。それからそれは明るいものだ。硫黄のようなお日さまの光の中ではよくわからない焔でもまっくらな処《ところ》に持《も》って行けば立派《りっぱ》にそこらを明るくする。火というものはいつでも照《て》らそう照らそうとしているものだ。それからも一つは熱《あつ》いということだ。火ならばなんでも熱いものだ。それはいつでも乾《かわ》かそう乾かそうとしている。斯《こ》う云う工合《ぐあい》に火には二つの性質がある。なぜそうなのか。それは火の性質だから仕方《しかた》ない。そう云う、熱いもの、乾かそうとするもの、光るもの、照らそうとするもの軽いもの騰ろうとするものそれを焔と呼《よ》ぶのだから仕方ない。
 それからまたみんなは水をよく知っている。水もやっぱり火のようにちゃんときまった性質がある。それは物《もの》をつめたくする。どんなものでも水にあってはつめたくなる。からだをあつい湯《ゆ》でふいても却《かえ》ってあとではすずしくなる。夏に銅の壺《つぼ》に水を入れ壺の外側《そとがわ》を水でぬらしたきれで固《かた》くつつんでおくならばきっとそれは冷《ひ》えるのだ。なんべんもきれをとりかえるとしまいにはまるで氷《こおり》のようにさえなる。このように水は物をつめたくする。また水はものをしめらすのだ。それから水はいつでも低《ひく》い処へ下ろうとする。鉢《はち》の中に水を入れるならまもなくそれはしずかになる。阿耨達池《あのくだっち》やすべて葱嶺《パミール》から南東の山の上の湖《みずうみ》は多くは鏡《かがみ》のように青く平《たい》らだ。なぜそう平らだかとならば水はみんな下に下ろうとしてお互《たが》い下れるとこまで落《お》ち着《つ》くからだ。波《なみ》ができたら必《かなら》ずそれがなおろうとする。それは波のあがったとこが下ろうとするからだ。このように水のつめたいこと、しめすこと下に行こうとすることは水の性質《せいしつ》なのだ。どうしてそうかと云《い》うならばそれはそう云う性質のものを水と呼ぶのだから仕方《しかた》ない。
 それからまたみんなは小鳥を知っている。鶯《うぐいす》やみそさざい、ひわやまたかけすなどからだが小さく大へん軽《かる》い。その飛《と》ぶときはほんとうによく飛ぶ。枝《えだ》から枝へうつるときはその羽をひらいたのさえわからないくらい早く、青ぞらを向《むこ》うへ飛んで行くときは一つのふるえる点のようだ。それほどこれらの鶯やひわなどは身軽《みがる》でよく飛ぶ。また一生けん命《めい》に啼《な》く。うぐいすならば春にはっきり啼く。みそさざいならばからだをうごかすたびにもうきっと啼いているのだ。
 これらの鳥のたくさん啼いている林の中へ行けばまるで雨が降《ふ》っているようだ。おまえたちはみんな知っている。このように小さな鳥はよく飛びまたよく啼くものだ。それはたべ物をとってしまっても啼くのをやめない。またやすまない。どうして疲《つか》れないかと思うほどよく飛びまたよく啼くものだ。
 そんならなぜ鳥は啼くのかまた飛ぶのか。おまえたちにはわかるだろう。鳥はみな飛ばずにいられないで飛び啼かずに居《い》られないで啼く。それは生れつきなのだ。
 さて斯《こ》う云うふうに火はあつく、乾《かわ》かし、照《て》らし騰《のぼ》る、水はつめたく、しめらせ、下る、鳥は飛び、またなく。魚について獣《けもの》についておまえたちはもうみんなその性質を考えることができる。けれども一体どうだろう、小鳥が啼かないでいられず魚が泳《およ》がないでいられないように人はどういうことがしないでいられないだろう。人が何としてもそうしないでいられないことは一体どういう事だろう。考えてごらん。」
 アラムハラドは斯う言って堅《かた》く口を結《むす》び十一人の子供《こども》らを見まわしました。子供らはみな一生けん命《めい》考えたのです。大人《おとな》のように指《ゆび》をまげて唇《くちびる》にあてたりまっすぐに床《ゆか》を見たりしました。その中で大臣《だいじん》の子のタルラが少し顔を赤くして口をまげてわらいました。
 アラムハラドはすばやくそれを見て言いました。
「タルラ、答えてごらん。」
 タルラは礼《れい》をしてそれから少し工合《ぐあい》わるそうに横《よこ》の方を見ながら答えました。
「人は歩いたり物《もの》を言ったりいたします。」
 アラムハラドがわらいました。
「よろしい。よくお前は答えた。全《まった》く人はあるかないでいられない。病気《びょうき》で永《なが》く床《とこ》の上に居《い》る人はどんなに歩きたいだろう。ああ、ただも一度《いちど》二本の足でぴんぴん歩いてあの楽地《らくち》の中の泉《いずみ》まで行きあの冷《つめ》たい水を両手《りょうて》で掬《すく》って呑《の》むことができたらそのまま死《し》んでもかまわないと斯《こ》う思うだろう。またお前の答えたように人は物を言わないでいられない。
 考えたことをみんな言わないでいることは大へんにつらいことなのだ。そのため病気にさえもなるのだ。人がともだちをほしいのは自分の考えたどんなことでもかくさず話しまたかくさずに聴《き》きたいからだ。だまっているということは本統《ほんとう》につらいことなのだ。
 たしかに人は歩かないでいられない、また物を言わないでいられない。けれども人にはそれよりももっと大切なものがないだろうか。足や舌《した》とも取《と》りかえるほどもっと大切なものがないだろうか。むずかしいけれども考えてごらん。」
 アラムハラドが斯う言う間タルラは顔をまっ赤《か》にしていましたがおしまいは少し青ざめました。アラムハラドがすぐ言いました。
「タルラ、も一度答えてごらん。お前はどんなものとでもお前の足をとりかえないか。お前はどんなものとでもお前の足をとりかえるのはいやなのか。」
 タルラがまるで小さな獅子《しし》のように答えました。
「私は饑饉《ききん》でみんなが死《し》ぬとき若《も》し私の足が無《な》くなることで饑饉がやむなら足を切っても口惜《くや》しくありません。」
 アラムハラドはあぶなく泪《なみだ》をながしそうになりました。
「そうだ。おまえには歩くことよりも物《もの》を言うことよりももっとしないでいられないことがあった。よくそれがわかった。それでこそ私の弟子《でし》なのだ。お前のお父さんは七年前の不作のとき祭壇《さいだん》に上って九日|祷《いの》りつづけられた。お前のお父さんはみんなのためには命《いのち》も惜《お》しくなかったのだ。ほかの人たちはどうだ。ブランダ。言ってごらん。」
 ブランダと呼《よ》ばれた子はすばやくきちんとなって答えました。
「人が歩くことよりも言うことよりももっとしないでいられないのはいいことです。」
 アラムハラドが云《い》いました。
「そうだ。私がそう言おうと思っていた。すべて人は善《よ》いこと、正しいことをこのむ。善《ぜん》と正義《せいぎ》とのためならば命を棄《す》てる人も多い。おまえたちはいままでにそう云う人たちの話を沢山《たくさん》きいて来た。決《けっ》してこれを忘《わす》れてはいけない。人の正義を愛《あい》することは丁度《ちょうど》鳥のうたわないでいられないと同じだ。セララバアド。お前は何か言いたいように見える。云《い》ってごらん。」
 小さなセララバアドは少しびっくりしたようでしたがすぐ落《お》ちついて答えました。
「人はほんとうのいいことが何だかを考えないでいられないと思います。」
 アラムハラドはちょっと眼《め》をつぶりました。眼をつぶったくらやみの中ではそこら中ぼうっと燐《りん》の火のように青く見え、ずうっと遠くが大へん青くて明るくてそこに黄金の葉《は》をもった立派《りっぱ》な樹《き》がぞろっとならんでさんさんさんと梢《こずえ》を鳴らしているように思ったのです。アラムハラドは眼をひらきました。子供《こども》らがじっとアラムハラドを見上げていました。アラムハラドは言いました。
「うん。そうだ。人はまことを求《もと》める。真理《しんり》を求める。ほんとうの道を求めるのだ。人が道を求めないでいられないことはちょうど鳥の飛《と》ばないでいられないとおんなじだ。おまえたちはよくおぼえなければいけない。人は善《ぜん》を愛《あい》し道を求めないでいられない。それが人の性質《せいしつ》だ。これをおまえたちは堅《かた》くおぼえてあとでも決《けっ》して忘《わす》れてはいけない。おまえたちはみなこれから人生という非常《ひじょう》なけわしいみちをあるかなければならない。たとえばそれは葱嶺《パミール》の氷《こおり》や辛度《しんど》の流《なが》れや流沙《るさ》の火やでいっぱいなようなものだ。そのどこを通るときも決して今の二つを忘れてはいけない。それはおまえたちをまもる。それはいつもおまえたちを教える。決して
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