い》なものだ。それはいつでも動《うご》いている。動いているがやっぱり形もきまっている。その色はずいぶんさまざまだ。普通《ふつう》の焚火《たきび》の焔なら橙《だいだい》いろをしている。けれども木によりまたその場処《ばしょ》によっては変《へん》に赤いこともあれば大へん黄いろなこともある。硫黄《いおう》を燃せばちょっと眼《め》のくるっとするような紫《むらさき》いろの焔をあげる。それから銅《どう》を灼《や》くときは孔雀石《くじゃくいし》のような明るい青い火をつくる。こんなにいろはさまざまだがそれはみんなある同じ性質《せいしつ》をもっている。さっき云《い》ったいつでも動いているということもそうだ。それは火というものは軽《かる》いものでいつでも騰《のぼ》ろう騰ろうとしている。それからそれは明るいものだ。硫黄のようなお日さまの光の中ではよくわからない焔でもまっくらな処《ところ》に持《も》って行けば立派《りっぱ》にそこらを明るくする。火というものはいつでも照《て》らそう照らそうとしているものだ。それからも一つは熱《あつ》いということだ。火ならばなんでも熱いものだ。それはいつでも乾《かわ》かそう乾かそうとしている。斯《こ》う云う工合《ぐあい》に火には二つの性質がある。なぜそうなのか。それは火の性質だから仕方《しかた》ない。そう云う、熱いもの、乾かそうとするもの、光るもの、照らそうとするもの軽いもの騰ろうとするものそれを焔と呼《よ》ぶのだから仕方ない。
 それからまたみんなは水をよく知っている。水もやっぱり火のようにちゃんときまった性質がある。それは物《もの》をつめたくする。どんなものでも水にあってはつめたくなる。からだをあつい湯《ゆ》でふいても却《かえ》ってあとではすずしくなる。夏に銅の壺《つぼ》に水を入れ壺の外側《そとがわ》を水でぬらしたきれで固《かた》くつつんでおくならばきっとそれは冷《ひ》えるのだ。なんべんもきれをとりかえるとしまいにはまるで氷《こおり》のようにさえなる。このように水は物をつめたくする。また水はものをしめらすのだ。それから水はいつでも低《ひく》い処へ下ろうとする。鉢《はち》の中に水を入れるならまもなくそれはしずかになる。阿耨達池《あのくだっち》やすべて葱嶺《パミール》から南東の山の上の湖《みずうみ》は多くは鏡《かがみ》のように青く平《たい》らだ。なぜそう平らだか
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