革トランク
宮沢賢治
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)楢岡《ならをか》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)建築図案設計工事|請負《うけおひ》と
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#小書き平仮名ん、229−10]
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斉藤平太は、その春、楢岡《ならをか》の町に出て、中学校と農学校、工学校の入学試験を受けました。三つとも駄目《だめ》だと思ってゐましたら、どうしたわけか、まぐれあたりのやうに工学校だけ及第しました。一年と二年とはどうやら無事で、算盤《そろばん》の下手な担任教師が斉藤平大の通信簿の点数の勘定を間違った為《ため》に首尾よく卒業いたしました。
(こんなことは実にまれです。)
卒業するとすぐ家へ戻されました。家は農業でお父さんは村長でしたが平太はお父さんの賛成によって、家の門の処《ところ》に建築図案設計工事|請負《うけおひ》といふ看板をかけました。
すぐに二つの仕事が来ました。一つは村の消防小屋と相談所とを兼ねた二階建、も一つは村の分教場です。
(こんなことは実に稀《ま》れです。)
斉藤平太は四日かかって両方の設計図を引いてしまひました。
それからあちこちの村の大工たちをたのんでいよいよ仕事にかゝりました。
斉藤平太は茶いろの乗馬ズボンを穿《は》き赤ネクタイを首に結んであっちへ行ったりこっちへ来たり忙しく両方を監督しました。
工作小屋のまん中にあの設計図が懸《か》けてあります。
ところがどうもをかしいことはどう云《い》ふわけか平太が行くとどの大工さんも変な顔をして下ばかり向いて働いてなるべく物を言はないやうにしたのです。
大工さんたちはみんな平太を好きでしたし賃銭だってたくさん払ってゐましたのにどうした訳かをかしな顔をするのです。
(こんなことは実に稀れです。)
平太が分教場の方へ行って大工さんたちの働きぶりを見て居《を》りますと大工さんたちはくるくる廻ったり立ったり屈《かが》んだりして働くのは大へん愉快さうでしたがどう云ふ訳か横に歩くのがいやさうでした。
(こんなことは実に稀《まれ》です。)
平太が消防小屋の方へ行って大工さんたちの働くのを見てゐますと大工さんたちはくるくる廻ったり立ったり屈んだり横に歩いたりするのは大へん愉快さうでしたがどう云ふ訳か上下に交通するのがいやさうでした。
(こんなことは実に稀です。)
だんだん工事が進みました。
斉藤平太は人数を巧《うま》く組み合せて両方の終る日が丁度同じになるやうにやって置きましたから両方丁度同じ日にそれが終りました。
(こんなことは実に稀れです。)
終りましたら大工さんたちはいよいよ変な顔をしてため息をついて黙って下ばかり見て居りました。
斉藤平太は分教場の玄関から教員室へ入らうとしましたがどうしても行けませんでした。それは廊下がなかったからです。
(こんなことは実に稀《まれ》です。)
斉藤平太はひどくがっかりして今度は急いで消防小屋に行きました。そして下の方をすっかり検分し今度は二階の相談所を見ようとしましたがどうしても二階に昇れませんでした。それは梯子《はしご》がなかったからです。
(こんなことは実に稀です。)
そこで斉藤平太はすっかり気分を悪くしてそっと財布を開いて見ました。
そしたら三円入ってゐましたのですぐその乗馬ズボンのまゝ渡しを越えて町へ行きました。
それから汽車に乗りました。
そして東京へ遁《に》げました。
東京へ来たらお金が六銭残りました。斉藤平太はその六銭で二度ほど豆腐を食べました。
それから仕事をさがしました。けれども語《ことば》がはっきりしないのでどこの家でも工場でも頭ごなしに追ひました。
斉藤平太はすっかり困って口の中もカサカサしながら三日仕事をさがしました。
それでもどこでも断わられたうとう楢岡《ならをか》工学校の卒業生の斉藤平太は卒倒しました。
巡査がそれに水をかけました。
区役所がそれを引きとりました。それからご飯をやりました。するとすっかり元気になりました。そこで区役所では撒水夫《さんすゐふ》に雇ひました。
斉藤平太はうちへ葉書を出しました。
「エレベータとエスカレータの研究の為《ため》急に東京に参り候《さふらふ》、御不便ながら研究すむうちあの請負の建物はそのまゝお使ひ願ひ候」
お父さんの村長さんは返事も出させませんでした。
平太は夏は脚気《かくけ》にかゝり冬は流行感冒です。そして二年は経《た》ちました。
それでもだんだん東京の事にもなれて来ましたのでつひには昔の専門の建築の方の仕事に入りました。則《すなは》ち平沢組
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