の監督です。
大工たちに憎まれて見廻り中に高い処《ところ》から木片を投げつけられたり天井に上ってゐるのを知らないふりして板を打ちつけられたりしましたがそれでも仲々愉快でした。
ですから斉藤平太はうちへ斯《か》う葉書を書いたのです。
「近頃立身致し候。紙幣は障子を張る程|有之《これあり》諸君も尊敬|仕《つかまつり》候。研究も今一足故|暫時《ざんじ》不便を御辛抱願候。」
お父さんの村長さんは返事も何もさせませんでした。
ところが平太のお母さんが少し病気になりました。毎日平太のことばかり云ひます。
そこで仕方なく村長さんも電報を打ちました。
「ハハビャウキ、スグカヘレ。」
平太はこの時月給をとったばかりでしたから三十円ほど余ってゐました。
平太はいろいろ考へた末二十円の大きな大きな革のトランクを買ひました。けれどももちろん平太には一張羅《いっちゃうら》の着てゐる麻服があるばかり他に入れるやうなものは何もありませんでしたから親方に頼んで板の上に引いた要《い》らない絵図を三十枚ばかり貰《もら》ってぎっしりそれに詰めました。
(こんなことはごく稀《ま》れです。)
斉藤平太は故郷の停車場に着きました。
それからトランクと一緒に俥に乗って町を通り国道の松並木まで来ましたが平太の村へ行くみちはそこから岐《わか》れて急にでこぼこになるのを見て俥夫はあとは行けないと断って賃銭をとって帰って行ってしまひました。
斉藤平太はそこで仕方なく自分でその大トランクを担《かつ》いで歩きました。ひのきの垣根の横を行き麻ばたけの間を通り桑の畑のへりを通りそして船場までやって来ました。
渡し場は針金の綱を張ってあって滑車の仕掛けで舟が半分以上ひとりで動くやうになってゐました。
もう夕方でしたが雲が縞《しま》をつくってしづかに東の方へ流れ、白と黒とのぶちになったせきれいが水銀のやうな水とすれすれに飛びました。そのはりがねの綱は大きく水に垂れ舟はいま六七人の村人を乗せてやっと向ふへ着く処《ところ》でした。向ふの岸には月見草も咲いてゐました。舟が又こっちへ戻るまで斉藤平太は大トランクを草におろし自分もどっかり腰かけて汗をふきました。白の麻服のせなかも汗でぐちゃぐちゃ、草にはけむりのやうな穂が出てゐました。
いつの間にか子供らが麻ばたけの中や岸の砂原やあちこちから七八人集って来ました。全く平太の大トランクがめづらしかったのです。みんなはだんだん近づきました。
「おお、みんな革だ※[#小書き平仮名ん、229−10]ぞ。」
「牛の革だんぞ。」
「あそごの曲った処ぁ牛の膝《ひざ》かぶの皮だな。」
なるほど平太の大トランクの締金の処には少しまがった膝の形の革きれもついてゐました。平太は子供らの云ふのを聞いて何とも云へず悲しい寂しい気がしてあぶなく泣かうとしました。
舟がだんだん近よりました。
船頭が平太のうしろの入日の雲の白びかりを手でさけるやうにしながらじっと平太を見てゐましたがだんだん近くになっていよいよその白い洋服を着た紳士が平太だとわかると高く叫びました。
「おゝ平太さん。待ぢでだあ※[#小書き平仮名ん、230−2]す。」
平太はあぶなく泣かうとしました。そしてトランクを運んで舟にのりました。舟はたちまち岸をはなれ岸の子供らはまだトランクのことばかり云ひ船頭もしきりにそのトランクを見ながら船を滑らせました。波がぴたぴた云ひ針金の綱はしんしんと鳴りました。それから西の雲の向ふに日が落ちたらしく波が俄《には》かに暗くなりました。向ふの岸に二人の人が待ってゐました。
舟は岸に着きました。
二人の中の一人が飛んで来ました。
「お待ぢ申して居りあ※[#小書き平仮名ん、230−9]した。お荷物は。」
それは平太の家の下男でした。平太はだまって眼をパチパチさせながらトランクを渡しました。下男はまるでひどく気が立ってその大きな革トランクをしょひました。
それから二人はうちの方へ蚊のくんくん鳴く桑畑の中を歩きました。
二人が大きな路《みち》に出て少し行ったとき、村長さんも丁度役場から帰った処でうしろの方から来ましたがその大トランクを見てにが笑ひをしました。
底本:「新修宮沢賢治全集 第九巻」筑摩書房
1979(昭和54)年7月15日初版第1刷
1983(昭和58)年12月20日初版第6刷
※底本は旧仮名ですが、拗促音は小書きされています。これにならい、ルビの拗促音も、小書きにしました。
入力:林 幸雄
校正:土屋隆
2008年2月27日作成
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